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【個人インタビュー 009】ミゲルさん

2018年05月25日 10:31 by tabunka_tokai

人・地域とのつながりを大切に〜日本で起業する〜

ペルー出身のミゲルさんは、大須商店街のシンボルである“招き猫像”から50mほど歩いたところにある南米雑貨店「PUKIO」を経営しています。また、自身で企画し、商店街で開催している「ラテン・アメリカフェスティバル」の実行委員長でもあります。そんなミゲルさんに、日本で起業するまでの道のりや将来の展望、そして「ラテン・アメリカフェスティバル」についてお話を伺いました。


子どもの頃からの夢

ミゲルさんが来日したのは、10歳の時に雑誌で日本人や着物を見て、「いつか必ず日本に行こう!」と思ったからだそうです。子どもの時からの夢を叶えるために、いろいろな仕事をしてお金を貯め、ついに2001年に初来日を果たしました。降り立った場所は東京。そこから、なぜ名古屋に居を構えるようになったのかと聞くと、「それは本当に偶然だったんだよ。」と答えてくれました。来日当初は日本語がまったく話せず、日本の都市は東京と京都しか知らなかったミゲルさんは、せっかく日本に来たのだから新幹線に乗ってみたいと思いたって、東京駅に向かいました。しかし、どこまで行ったらいいのかわからず、切符売り場でポケットから1万円札を出したところ、返ってきたのが名古屋までの切符だったそうです。そして名古屋駅に降り立ち、あちこち観光して回りました。その時、知り合った人の紹介がきっかけで、東海地域で働くことになったそうです。

辛かった日本での仕事

来日前もいろいろな仕事を経験してきたミゲルさんですが、来日後に働いた弁当屋の仕事ほど大変な職場はなかったと言います。冷蔵庫のように冷たい倉庫の中で野菜を洗ったり、重たいものを運んだりと、そこは決して快適な環境ではありませんでした。それでも、日本語が話せない自分ができる仕事は限られているから、がんばって働こうと自分を奮い立たせました。当時の職場環境を振り返って、「人間はどんなに大変な労働環境でも、 がんばればできると思う。しかし、それに差別やいじめが加わった時ほど辛いものはない。外国人は人として扱われなかったよ」とミゲルさんは言います。その職場にはミゲルさんの他にも外 国人の従業員がいましたが、日本人従業員からひどい扱いを受けても、日本語ができないために反発することもできず、ただただ耐える日々を送っていたそうです。

でもある日、状況が変わりました。ミゲルさんが初めて日本人に対して日本語で怒ったのです。日本語がわからないと思っていた日本人は、その日を境に何も言わなくなりました。ミゲルさんはその後もまじめに仕事に取り組んで、すべての作業ができるようになり、後輩を指導する側にもなりました。また、仕事をしながら日本語学校にも通いました。週に2日、授業に間に合う時間に仕事を切り上げて、日本語の勉強に励む日々。時間もお金も少しも無駄にしたくないと思って、勉強に打ち込みました。次第に日本語が話せるようになったことで自信がつき、次の一歩を踏み出そうと弁当屋の仕事を辞めました。

そして、起業

その後ミゲルさんは、母国での経験を生かして自動車工場でも働きましたが、自分がやりたいことは何かと考え、来日前に抱いていた「日本で自分の会社を持つ」という夢を叶えたいと思うようになりました。当初は自動車整備の会社を作ろうとしましたが、日本語で書かれたマニュアルを理解するのはとても難しく、どうすればよいか悩みました。そんな時、自動車会社で働いていた時に知り合った日本人に、一緒に南米雑貨の店をやらないかと誘われました。出店場所を見つけるために不動産屋を何軒も回りましたが、外国人に貸してくれる物件はなかなか見つからなかったそうです。ある日、良さそうな物件を見つけて不動産屋に行くと、担当者が大家に連絡を取ってくれました。そこで、思いがけない言葉が電話の先から聞こえてきました。

不動産屋:外国の方が部屋を借りたいと言っているんですが。

大  家:黒人ですか、白人ですか?

不動産屋:黒人です。

大  家:黒人はだめです。 

差別に負けない

ミゲルさんは、そんなことがあっても諦めず、お店を持ちたいという夢に向かって来る日も来る日も物件を探しました。そして、半年ほどしてやっと伏見通り(名古屋市中区)の近くに場所を借りることができ、ついにお店を開くことになりました。扱う雑貨はすべて手作りのもので、自身でも南米に買い付けに行くそうです。コツコツまじめに働くことでお店の売り上げも伸び、インターネットショップもオープンしました。売り上げが伸びると、いろいろと複雑な手続きが増えてきたので、アドバイスを受けるために商工会に入りました。店づくりも工夫をし、雑貨を扱うだけではなく、 BARやLIVE、音楽教室やダンス教室など、次々と事業展開していきました。自分が考えたことでお客さんが喜んでくれることが嬉しくて、仕事にますますのめり込んでいったと言います。お店は、1年に1回はテレビの取材が来るほど注目されるようになりました。

開店後は順風満帆かのように思われますが、ミゲルさんは「正直、途中で店をやめようと思ったこともあった」と言います。全国各地で開かれるイベントに出店した際、南米から商品が届かないというトラブルに何度も見舞われたそうです。イベント終了後に商品が大量に届き、在庫を抱えて途方に暮れたことも一度や二度ではありません。しかし、「そんなトラブルも自分を強くしてくれた」と前向きに捉えるミゲルさん。店を辞めようかと悩んだ時、いつも友人たちが励ましてくれたそうです。

ミゲルさんには、新しい目標がありました。それは、商店街の中に店を持つこと。家賃の支払い期限などを必ず守り、イベントも継続してやってきたことで不動産屋から信頼を得て、2年前に商店街の中の空き店舗に移らないかと誘われました。そしてついに、念願だった商店街の中に店をオープンさせることができました。お店をやっていて特に楽しいことは何かと聞くと、「お店に来てくれる日本人と、日本や南米の話ができるのが楽しい。直接人と関われて毎日がおもしろい」と話してくれました。

ラテン・アメリカフェスティバル

大須商店街(名古屋市中区)で南米雑貨店「PUKIO(プキオ)」をオープンしてから、ミゲルさんは「日本人の生活は仕事ばかりで、あまり楽しいことがないのではないか。日本人と一緒に楽しめることができないか」と感じることがありました。そして、いつか商店街で大きなイベントを開きたいと思うようになりました。来日してから出会った人々と少しずつ企画を練り、2010年にナディアパーク(名古屋市中区)で「第1回ラテン・アメリカフェスティバル」を開催しました。

開催前は「人が集まるのか、うまくやれるのかと心配で眠れなかった」と言います。しかしそんな心配をよそに、イベントは1,500人もの観客を集め大成功に終わりました。2012年からは会場を念願だった大須商店街に移して行っています。最初から大須商店街で開催しなかったのは、「いきなり大きなことをやると驚かれるから、まずはよそで実績をつくって、大丈夫だということを示したかった」のだとか。名古屋市、JICA中部、名古屋国際センターなどから後援をもらい、商店街の人にも協力してもらって、みんなでイベントをつくりあげることを意識してきました。当初はスポンサー集めに苦労しましたが、回数を重ねるたびに信頼が増し、今ではスポンサーの常連になった企業もあります。現在、実行委員長のミゲルさんの他は、実行委員全員が“南米好きの日本人”だそうです。毎年同じことをやっていたらお客さんが飽きてしまうので、どうしたら楽しんでもらえかと実行委員みんなで考えているそうです。

 

これから

ミゲルさんは「これからも日本に住み続けようと思っている」と言います。頭の中には、まだまだやりたいことが溢れているのだと。当面の目標は、大須商店街のお店を大きくすること。1階で雑貨を売り、2階はBARにして、お客さんがもっと楽しめる空間を作りたいと考えています。そして、これからもイベントを通じてたくさんの人を笑顔にしていきたいと、ミゲルさんの夢と行動力は広がるばかりです。

 

大須 南米の輸入雑貨 PUKIO                      http://www.site-builder.jp/1090/pukio/

名古屋ラテン・アメリカフェスティバル facebookページ           https://www.facebook.com/nagoyalatino/

*この記事は、2013年10月発行『たぶんか便り』第9号の記事を元にしています。本文内の情報はすべて、発行当時のものです

 

 

 

 

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