たぶんか便りhttps://mrct.publishers.fm/2020-07-09T06:53:44+00:00【個人インタビュー016】玉城エリカさん
2020-07-09T06:48:07+00:00tabunka_tokaihttp://mrct.publishers.fm/editor/794/http://mrct.publishers.fm/article/18870/<p>名古屋市港区にある九番団地で活動する<a href="http://manabiyakyuban.wixsite.com/manabiya" rel="nofollow"><span style="text-decoration: underline;">NPOまなびや@KYUBAN</span></a>。ここで外国にルーツを持つ子どもたちの支援に携わり、家庭では発達障がいのあるお子さんを育てていらっしゃる日系ペルー人の玉城エリカ(Erika TAMASHIRO)さんに、日本での子育てや発達障がい児の支援環境づくりについてお聞きしました。<img /></p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/5fb711593ab6415398d54bbbe56e27df.jpg" /><img /></p>
<p> </p>
<p><strong>―来日当初のことを教えてください。</strong></p>
<p>最初に働いたのは東京の工場でした。一日中働き通しでしたが、正社員並みの待遇で働くことはとても楽しかったです。その後、名古屋で派遣社員として働きましたが、人を大切にしない会社だったため、2か月で辞めました。当時の私には人材派遣がどのようなものかといった、働くための知識もありませんでした。</p>
<p>その後、夫と出会って結婚し、小さなアパートで暮らし始めました。お風呂はなく、トイレも共同という古いアパートでしたが、自分で借りて住むということに安心感がありました。家の近くの工場を通りかかった時に求人チラシを目にして、「私を雇ってください」と言って働かせてもらえることになりました。その工場には、障がいを持つ方もたくさん働いていて、とてもいい会社でした。とてもいい会社でしたが、会社の事情で辞めることになりました。</p>
<p>次の転職活動の時、名古屋に外国人向けのハローワークがあることを知り、そこからの紹介で、ある工場で働き始めました。その工場で働いていた時に、第1子を妊娠しました。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/b149eb055ee64849a3b5bd7347db77d3.jpg" /></p>
<p style="text-align: center;">(中学生時代のエリカさん。前から2段目、右から6番目)</p>
<p><strong>―妊娠や出産に関する日本の制度等の情報は、どこで知ったんですか?</strong></p>
<p>工場で一緒に働いていた40〜50代の女性がとても親切にしてくれました。子どもができた時、母子健康手帳があることや、地域の保健所で相談できること、妊婦向けの講座やヨガ教室のことなどを教えてもらい、自分でも調べるようになりました。</p>
<p>私はこれまでも行く先々で、自分の仲間を見つけてきました。その人が外国人を好きか嫌いかはすぐにわかります。もし嫌いでも、それはその人の考え方なので、時間をかけて仲を深めていけばいいと思っています。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/344d0abd2e63479fb95861bb3ba6a3b6.jpg" width="689" height="689" /></p>
<p style="text-align: center;">(ペルー料理講座では講師として活躍)</p>
<p><strong>―日本での</strong><strong>子育てで、どんな苦労や難しさがありましたか?</strong></p>
<p>地域の中でつながりをつくっていこうと考え、PTAや地域行事にも参加しました。その中で、例えば子育てに関する価値観などの違いを感じることもありました。</p>
<p>日本人の親は「友達が持っている」から子どもに何かを買ってあげたりすることがありますが、我が家では、「友達が持っている」からということは理由にしません。子どもに「どうしてそれが欲しいのか?自分はどうしたいのか?」をいつも聞いてから買うかどうかを決めていました。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/856c5a5f58e047d7a2f3dc306d01225e.jpg" width="657" height="493" /></p>
<p style="text-align: center;">(地域の防災訓練では、「NICやさしい日本語カルタ」を紹介)</p>
<p><strong>―お子さんの障がいに気づかれたのは、いつごろですか?</strong></p>
<p>子どもの発達に違和感を覚えたのは、1歳半ごろでした。手がかからない大人しい子でした。下の子はすぐに泣いたり感情を表現するのに、お兄ちゃんはそうした姿が見られないということがおかしいなと感じ始めていました。小児科や保健所に相談しても「問題ない」と言われました。</p>
<p>自治体で設置している子どもの発達相談窓口では「発達の遅れではなく、日本語とスペイン語の2言語による混乱ではないか?」と言われました。発達障がいを診断する時の指標の一つになる「指差し」もできたため、発達障がいであることがわかりにくかったんです。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/2c48a889ce8d4c319885e94f636a3050.jpg" width="717" height="537" /></p>
<p style="text-align: center;">(<a href="https://saigainetaichinago.wixsite.com/tabonet" rel="nofollow">TABOネット</a>の外国人SNS利用状況調査の様子)</p>
<p><strong>―その後、どのように子育てをされたんですか?</strong></p>
<p>日本にいても、長男について感じていたことへの答えは見つけられないと思い、ペルーに帰国して診断を受けることにしました。ペルーに住む親戚が、医療機関を探してくれて診断を受けられることになったんです。</p>
<p>日本では「発達障がいではない」と言われ続けていたのに、ペルーではあっさりと「この子は発達障がいですね」と診断を受けました。ペルーには親戚がいてサポートを受けられる環境もあったため、そのままペルーに残り小学校まで療育を受けることにしました。</p>
<p style="text-align: center;"><iframe src="//www.youtube.com/embed/_-CgbC9jTnU" width="560" height="314" allowfullscreen="allowfullscreen" data-mce-fragment="1"></iframe> </p>
<p style="text-align: center;">(エリカさん親子も登場されている名古屋市「多文化共生推進ビデオ」)</p>
<p><strong>―発達障がいという診断を受け、どのような気持ちになりましたか?</strong></p>
<p>妊娠中の2011年9月11日にアメリカで同時多発テロが起きて、その悲惨なニュースを見ることによるストレスが子どもの発達障がいにつながったのではないか、自分のせいではないかと思い、落ち込んだ時もありました。</p>
<p>ペルーでの療育で、子どもは随分と成長したと思います。自分一人の世界でいることが好きな息子でしたが、先生の「今はこの世界が楽しいということを教える時なんだよ」という言葉を心に留めて子どもと向き合いました。 </p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/5557bee2b4da4567ad04473a27f7fa60.jpg" width="881" height="661" /></p>
<p style="text-align: center;">(絵本の読み聞かせイベントでは、毎回スペイン語担当として引っ張りだこ)</p>
<p><strong>―小学校入学時には、どんなことを心がけていたんですか?</strong></p>
<p>療育はペルーで受け、その後は日本の学校に通わせようと考えていたため、小学校入学前に日本に戻ってきました。まず、校長先生と教頭先生に、息子の発達障がいのことやペルーでの療育のことを伝えました。先生はとても丁寧に話を聞いてくださり、息子が学校の中で学ぶための環境を整えてくれました。息子が通っていた小学校には、発達障がい児や外国にルーツがある子のためのクラスはありませんでした。</p>
<p>担任の先生は「簡単なスペイン語を教えてほしい」と言って、それをクラスに掲示物として貼りました。息子は、わからないことがあるとパニックになってしまうのですが、そんな時、先生は息子に「お手伝いさん」という役割を与え、先生の横に座ってプリントを配ったり、黒板を消したりするサポート役として息子に接してくれました。息子を一人の人間として尊重するという先生の態度があったから、息子はクラスメイトに疎外されることもありませんでした。 </p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/fd84b53238b14138bd9204f94f809b89.jpg" width="928" height="696" /></p>
<p style="text-align: center;"> </p>
<p><strong>―その後、特別支援学級に入ることになったきっかけは?</strong></p>
<p>幼少期をペルーで過ごしたため、日本語の習得もできておらず、普通学級で学ぶことは息子のためにならないと感じました。先生から特別支援学級をつくるというお話を聞いて、2年性から特別支援学級に移動しました。発達障がいの子どもを持つ親自身が、子どもを特別支援学級に入れるということをよく思っていないケースがあると聞きますが、私はその子にとって必要な配慮を受け、成長していくための環境を選ぶことが大切だと考えています。その選択の一つが、特別支援学級だと思います。</p>
<p>大切なのは、親が調べる力を持つことだと思います。親自身が子どもの成長に必要なことを調べる、できる限りいろいろなことを知ろうとすることで、子どもの発達障がいについての捉え方も変わっていくと思います。早いもので今春、長男は養護学校に通う高校2年生になりました。これから進学や就職について考えていくことになります。社会とどうつながっていくのか、ということがとても気になっています。</p>
<p><strong>―</strong><strong>NPO</strong><strong>まなびや</strong><strong>@</strong><strong>KYUBANに</strong><strong>は、どうやって出会ったんですか?</strong></p>
<p>偶然NPOの活動場所の前を通りかかったのがきっかけで関わることになりました。私は、気になるところを見つけると自分から飛び込んでいくタイプで、そういうことが全然苦になりません。周りの子どもたちを助けることは自分の子どもを助けることにもつながっていくのだという思いから、NPOの日本語教室のお手伝いをするようになりました。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/62257cadcaac413eb15f9e52273c2c45.png" /></p>
<p style="text-align: center;">(まなびや@KYUBANで子どもたちと遊ぶエリカさん)</p>
<p>その頃リーマンショックが起きて、街には困窮した子どもたちが溢れていました。外国にルーツのある子どもたちが、ちょっとした日本の学校の文化を知らないことで、学校が子どもにとって学びと成長の場になっていないということを目の当たりにしてきました。5年生になってもひらがなやカタカナが書けないなど、発達に問題があるのではないかと思う子どもたちもいました。</p>
<p>私は、子どもがその時にやりたいことをやる、目標に向かってがんばることは、その子の将来を拓いていくと思います。大学や専門学校に進学する子は少なく、ライフプランを考えるための情報が不足しています。子どもが「モデルになりたい」、「サッカー選手になりたい」といった夢を持つ時、最初から周りの大人が「無理だ」と言ってしまうと次につながりません。子どもたちの思いを大切にできる社会であってほしいです。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/12152aa0bfb2492686176439677a1b94.jpg" /></p>
<p><strong>―最後に、読者のみなさんにメッセージをお願いします。</strong></p>
<p>「子ども主体の社会」をつくることを考えてほしいと思います。</p>
<p>外国人の親が子どもを顧みず、働き通しになってしまう状況でも、親の責任だけが問われがちです。子どもに目を向けられない親の責任ではなく、人を機械やモノのように扱う企業の意識や労働環境が、親が子どもと過ごす時間を奪っていると思います。</p>
<p>親も心にゆとりを持ち、お金よりも子どもの人生が一番大切だと気づくことができれば、日本語や日本社会のことを学んで、ここで生きるために必要なことを知ることができるのではないでしょうか。子どもたちに必要なのは、モノではなく「関係性」だと思っています。</p>
<p>親との関係性、助けてくれる周りの人々との関係性の中で子どもたちが育っていけるようになることが私の願いです。</p>2020-07-09T06:48:07+00:00【個人インタビュー 015】モニカ・フランシスカさん
2020-07-09T06:49:05+00:00tabunka_tokaihttp://mrct.publishers.fm/editor/794/http://mrct.publishers.fm/article/18647/<p>三重県が実施した<span style="text-decoration: underline; color: #000000;"><a href="http://www.pref.mie.lg.jp/TOPICS/m0011500098.htm" rel="nofollow">外国人住民国籍・地域別人口調査</a></span><span style="color: #000000;">に</span>よると、県内の外国人住人数は47,665人で前年比9.7%の上昇となりました<span style="font-size: 10px;">(平成29年12月31日現在)</span>。この調査は毎年行われていて、外国人数は2014年から4年連続で増加しています。こうして新たに来日した人々は、はたして言葉も文化も違う日本社会にうまく溶け込めているのでしょうか。今後も増加すると考えた場合、こうした人々をサポートするシステムは構築されているのでしょうか。</p>
<p>今回は、四日市市役所の四郷(よごう)地区市民センター相談員として、外国人住民の生活相談を担当されているモニカ・フランシスカさんに、共生社会に向けた取り組みの現状と課題についてお話を伺いました。</p>
<p> <img style="margin: 0px;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/ba2082b5cf3c429d99949c519850f0dd.jpg" /></p>
<p> </p>
<p>「日本が大好き!」と言うモニカ・フランシスカさんは、インドネシアで生まれ育ちました。母国の大学を卒業後、もう少し勉強を続けたいと留学を考え、いくつかの国を検討していたそうです。そんな彼女が初めて日本を訪れたのは、1997年12月のこと。</p>
<p><strong>―来日のきっかけは?</strong></p>
<p>最初はカナダに興味を持っていましたが、決める前にいろんな国に行ってみようとオーストラリアやシンガポール、日本を訪れました。日本を選んだのは、友人が埼玉に住んでいたので会いに行こうと思ったからです。来てみたら、すごく気に入ってしまって。日本に一目惚れでした(笑)その時は2週間ほど滞在して帰国したのですが、翌98年の3月にまた来てしまいました。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/b1c4b336ae9b4a04922a4ea0778e9cb6.jpg" /></p>
<p style="text-align: center;">(金閣寺を背に浴衣で記念の一枚)</p>
<p> <strong>―</strong><strong>2</strong><strong>度目の来日時に、運命の出会いがあったそうですね。</strong></p>
<p>ブラジル出身の現在の旦那と出会い、結婚しました。それで結局、大学へは行きませんでした。その後、旦那の母国であるブラジルに渡って3年ほど過ごし、2005年に旦那の仕事の関係で再び日本へ戻ってきました。</p>
<p>正直、ブラジルの文化は、私にはしっくりきませんでした。ウエスタンっぽいと言うか、なんでも自由といった雰囲気に馴染めなかったのです。ずっと日本に戻りたいと考えていました。</p>
<p><strong>―日本のどんなところを気に入っているのでしょうか。</strong></p>
<p>“おもてなし”の文化です。カナダは自然がきれいだけど、おもてなしの文化はありません。おもてなしの文化にみられる細やかな気遣いが、とても心地よくて大好きなんです。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/08770c91854e49bbb70dd4ab4c9f44d7.jpg" /></p>
<p><strong>―3度目の来日後は、何をされていたんですか?</strong></p>
<p>当初は群馬県に住んでいたんですが、東日本大震災後に不安を抱えて過ごす中、三重県から旦那の仕事関係のオファーがあり、5年前に三重県に移り住みました。</p>
<p>現在、旦那は県内の人材派遣会社で外国人労働者の通訳や仕事の紹介をしています。私は市役所の相談員として、外国人住民の暮らしをお手伝いしています。</p>
<p><strong>―お仕事では、これまでのご自身の経験が役に立っているそうですね。</strong></p>
<p>私がいちばん苦労したことは“言葉の壁”ですね。日本に来たばかりの頃、知っている日本語は「ありがとう」くらいでした。日本語がまったくわからなかった頃は仕事を探すのも大変でしたし、具合が悪くなって病院に行ってもお医者さんにうまく伝えることができない、先生の言っていることが理解できないといった状況でした。</p>
<p><img style="margin: 0px;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/4ca6922de7734e7bbadb3f3b2a45fb2d.jpg" /></p>
<p style="text-align: center;">(安芸の宮島で、ご家族と。)</p>
<p>今でも忘れられないのは、初めて妊娠した時です。いつも先生の指示を紙に書いてもらって、家に帰ってから辞書を引いて確認していました。当時は今みたいに医療通訳もいませんでしたし、母子健康手帳は日本語版しかありませんでした。国の母に相談しようにも国際電話はお金がかかるし、本当に不安でした。相談できる友人はいましたが、間違って伝えられることも多くて、結局自分で理解しなくてはと思って日本語を一生懸命勉強しました。こうした経験から、日本に来る外国人にはできるだけ日本語を勉強してほしいと強く感じています。</p>
<p> <strong>―日本語の勉強はどうでしたか?</strong></p>
<p>今、私は、母国語のインドネシア語の他に、英語とポルトガル語、そして日本語が話せますが、中でも日本語は特に難しかったです。でも日本が大好きだったから、とにかく勉強しようと思いました。それに、子どもたちは日本で育っていますから、普段の会話は日本語です。子どもとコミュニケーションをとるためにも、日本語の習得は必須でした。日本語を理解できるようになると、生活が大きく変わりました。わからないことがあっても、自分で調べることができます。今の時代、インターネットの検索サイトで簡単に調べ物ができますが、言葉がわからないと検索すらできません。もちろん、便利な翻訳サイトもありますが100%正しいとは言えません。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/afea4d58c7124201b90e896845d7a9b7.jpg" /></p>
<p><strong>―活動地域である四郷地区は、ブラジル人が多く暮らしているそうですね。</strong></p>
<p>ブラジルの人達は独自のコミュニティがあって、日本語が話せなくても生活できるからそれでいいと考える人も多いように思います。でも、日本語がわからないために簡単な行政手続きにも知人にお金を払って通訳や翻訳を頼んでいるのを見ると、本当にそれでいいのかなと少し疑問に感じてしまいます。また、そうした人達の子どもも日本で育っていきます。私も経験しましたが、日本の教育システムは日本人のママ友とコミュニケーションをとらないとなかなか理解できません。子どもたちが成長するにつれ、わからないことに答えてあげることができなくなる日がくることは避けられないと思います。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/1394439a0f8f4015a3f6d50d47267870.jpg" /></p>
<p style="text-align: center;">(インドネシアやブラジルでは体験できない銀世界!)</p>
<p><strong>―“言葉の壁”の他にはどんな課題があるのでしょうか。</strong></p>
<p>行政としては、さまざまなお知らせを多言語で作るようにしています。英語やポルトガル語、スペイン語などですね。でも、彼・彼女達には「読む文化」がないのか、翻訳してもなかなかそれを読んでくれません。どうやって伝えようかといろいろ考えて、最近フェイスブックなどのSNSで配信するようにしてみました。そうしたら結構シェアしてもらえて、今まで行政の相談窓口を知らなかった人達が相談に来るようになるなど、一定の効果を感じています。これからはこうした方法に力を入れるのもいいかと考えています。 </p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/8513c8766527484db7e127c1d6374a51.jpg" /></p>
<p> <strong>―今後の夢や目標を教えてください。</strong></p>
<p>群馬にいた頃は、ALT(=Assistant Language Teacher:外国語指導助手)として小中学校の英語教育にも携わりました。その後、自分が苦労した経験から医療通訳や今の相談員の仕事をしてきましたが、新たなチャレンジとして大好きな日本人の役に立ちたいという思いがあります。できれば、英語の教師をしていた経験から日本人向けの英語教室を開けたらいいなと考えています。</p>
<p> 外国人として来日し、さまざまな壁を乗り越えて日本での生活を楽しんでいるモニカさん。一方で、壁を乗り越えることが難しい人たちとも向き合い、自身の経験から感じたことを伝えていくことは簡単なことではありませんが、「今の仕事は大好きです。今後も続けていきたい」と言う彼女の姿は、外国人との共生社会づくりに向けて取り組む際の姿勢を示してくれているようです。モニカさんのような人々の働きが、日本の外国人受け入れのためのシステム構築に貢献していることは間違いありません。今後の活躍を心から応援しています。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/bbfc271b505e45b9adae689212236651.jpg" /></p>2020-07-09T06:49:05+00:00【団体インタビュー 015】NPO法人名古屋トルコ日本協会
2020-07-09T06:49:38+00:00tabunka_tokaihttp://mrct.publishers.fm/editor/794/http://mrct.publishers.fm/article/18645/<p><strong>日本の中のトルコ</strong></p>
<p>NPO法人名古屋トルコ日本協会(NTJA)は、両国の人々は互いをより深く理解し、両国間の経済的・文化的・社会的な交流を深め友好を強めることを目的に平成18年9月4日に設立されたものです。(<a href="http://ntja.org/" rel="nofollow"><span style="text-decoration: underline;">名古屋トルコ日本協会Web</span></a>サイトより)</p>
<p>トルコといえば、世界中で人気の観光地の一つ。エキゾチックな建物や衣装。親日家で優しい国民性。ケバブやトルコアイスに美味しいコーヒー。色んなイメージがあるのではないでしょうか。政治的にも、海難事故で助け合った歴史のある日本とトルコは友好な関係にあります。ただ、近年では、シリア情勢に影響を受けてテロ攻撃が増えているなど良いイメージばかりではなくなってしまっているかもしれません。</p>
<p>このような状況を受けて、観光に行く際に「安全ではないかも」と身構えてしまう人もいるでしょう。そんな中、10年以上東海地区で活動を続け、トルコと日本の架け橋になってきた団体が名古屋トルコ日本協会です。人と人とをつなげる活動をしながら、トルコ人と日本人が集い共生する場所をつくっています。</p>
<p style="text-align: center;"><img style="margin: 0px;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/a0ca66049459440b9b632e0b941a773f.jpg" width="1008" height="756" /> </p>
<p style="text-align: center;">(理事長のチェティン・セルカンさん)</p>
<p style="text-align: center;"> </p>
<p><strong>活動の原点</strong></p>
<p>2006年9月、トルコ人と日本人が一緒に集まって活動する拠点が必要だという想いを持つ4人の同志により活動が始まりました。それ以前にもトルコ文化センターを拠点にトルコ人と日本人のつながりはあったそうですが、友達の家やお店など決まった場所で食事を共にするなど個人的なつながりにとどまり、定期的に集まって友達の輪を広げる機会があまりありませんでした。トルコ人と日本人の交流を盛り上げようと、語学学校の校長先生のアイデアで現在の理事長チェティンさんと友達で何かできないかと知恵を出し合いました。友達同士でばらばらに行われていた集まりをつなぎ合わせ、より活発で安定した活動を展開するための最適な方法としてNPO法人を立ち上げることにしました。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/7204329b603744eabc39f79513477b43.jpg" width="1048" height="786" /></p>
<p style="text-align: center;">(とてもわかりやすいリーフレット)</p>
<p>「最初は友達同士で気楽にはじめたこともあり、決して企業のように組織化されているわけではないので、立ち上げ時は1,2年で活動が終わってしまう心配もありました。」とチェティン理事長は振り返ります。しかし、ボランティアとして協力してくれる人々が仕事や家庭以外の限られた時間を使って力を発揮し、周囲の人を巻き込んでいくことで、4名の想いからスタートした活動は、年数を重ねるごとに人の輪が重なり合って大きくなってきました。現在は団体の理事もトルコ人と日本人で担当し、在籍する会員もトルコ人と日本人のバランスが取れた構成になっています。</p>
<p><strong>人に出会い、つながる活動</strong></p>
<p>当初は、どんな団体になっていくのか見えない部分もあり、トルコ人向けの通訳・翻訳やビジネスマンへの支援を実施するなど、NPO法人として収支を成り立たせる活動も意識されていました。団体としての基盤が固まるにつれて、団体の活動の原点であった、トルコ人と日本人が交流できる場を安定して供給したいという想いが実現されていきました。現在は友好を深めることを目的とした活動が中心となっています。</p>
<p>NTJAの現在の活動は大きく分けて、1.文化的・社会的活動、2.教育的活動、3.その他の3つから成っています。</p>
<p>1.文化的・社会的活動では、参加者の興味に合わせて、トルコ語会話教室、料理教室(トルコのキッチン)、トルコの手芸・ランプ作り教室、トルコの夕べ・フレンドシップ食事会、お花見・ピクニックなど、定期的に開催されているイベントや教室により様々な角度からトルコ文化に触れることができます。調理施設や大きなスペースが必要なイベントでは会場を移して実施することもあります。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/fbe6a4b6dc37459d8c1d0d00517116d8.jpg" width="1129" height="847" /></p>
<p style="text-align: center;"> (トルコの手芸「オヤ」)</p>
<p><img />2.教育的活動では、トルコから日本へ、日本からトルコに行く(行きたい)人々の相談サポートをしています。学生や大学教員からの相談・支援の問い合わせや要望が届くのですが、それに応えることがお互いの交流を円滑にする手助けとなっています。異国での生活には不安がつきもので、様々な問題に対して悩みを聞いたりアドバイスをしたりすることで、解決に直結しなくても不安を和らげてあげられる。この考えのもと、大学などの団体だけでなく個人からの問い合わせにも対応しています。</p>
<p>また、活動の広がりとして、刈谷市のKIFAV文化交流グループや清州市の清須市国際交流協会などとタイアップして料理教室なども実施しています。これらは団体に在籍する会員と市の職員がつながっていたことがきっかけになっており、団体が人とのつながりを大切にしながら成長してきたからこそ実現したのです。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/31ce7c8ecc9b42c39b8f905c9eb54476.jpg" width="1318" height="988" /></p>
<p style="text-align: center;">(ステキな手作り工芸品の数々)</p>
<p> イベントや教室に参加する人々とトルコとのつながりは、身内がトルコ人と結婚して何度も訪れている、トルコでホームステイしたことがありトルコ語がペラペラという人からトルコに一度行ってみたい、トルコ人に会うのは初めてという人まで、人それぞれです。トルコ人の参加者も、数か月前に日本に来た人もいれば、何年も日本で暮らしている人もいます。</p>
<p>それでも、お互いにもっと知りたい、学びたいという気持ちは同じで、トルコ人も日本人も一緒になって各々の疑問や興味をぶつけ合っている光景が印象的でした。この場を求めて、県外から参加している方もいました。イベント自体も一回の参加で食事、音楽、アート展示などが楽しめて大変魅力的ですが、それ以上に、そこに集う人々との生き生きとした交流がトルコへの入口を開いてくれるのです。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/3b2476c13e954e3e874677d11ed0fd6b.jpg" width="1300" height="975" /></p>
<p style="text-align: center;"> (トルコ語の絵本を見せてくれたスタッフさんたち)</p>
<p><strong>名古屋トルコ日本協会の未来図</strong></p>
<p>今後、名古屋トルコ日本協会をどのように発展させていきたいか、チェティン理事長はその夢を語ってくださいました。</p>
<p>トルコに関連した団体は全国にありますが、国内の団体同士での交流はこれから進めていかなければならない活動なのだと。日本で暮らす外国人のコミュニティは孤立してしまう傾向にあり、日本人との壁を作って自分のコミュニティに閉じこもってしまいがちだと感じているチェティン理事長の夢は、全国で活動するトルコに関連した団体と一緒になってトルコ人と日本人の間にある壁を破りながら「友達」を増やすこと。お互いのコミュニケーションを通して理解し合うという考え方は、協会の看板である団体名にも表現されており、「名古屋を拠点としたトルコと日本の理解を深め合う団体」を目指しています。</p>
<p>そして、それを実現するためにはトルコと日本人の交流を広げるネットワークが日本全国に根差していることが理想的なのです。限られた時間の中で活動しているため、理想に近づくには時間がかかりますが、名古屋トルコ日本協は明確なビジョンを持って前進し続けています。</p>
<p> <img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/c5cabf2031cc46ed91a11154810320c9.jpg" width="1173" height="879" /></p>
<p style="text-align: center;"> (とても流暢な日本語で、丁寧にわかりやすくお話くださいました)</p>
<p><strong>遠くて近い国トルコ</strong></p>
<p>他の外国に比べ、トルコ人にとっては日本が住みやすい場所だとチェティン理事長が教えてくれました。似ているところが沢山あるのだそうです。例えば、家に帰ると「ただいま」と言うところ、靴を脱いで家に上がるところ、年配の方々への敬いの気持ちなど。言語においてもアルタイ語を源流としており、学術的にもその類似性が注目されているようです。ヨーロッパが目と鼻の先にあるアジアの端っこのトルコと、海に囲まれた極東の日本で文化や歴史のつながりがあるとは不思議な感覚です。</p>
<p>もちろん、日本とトルコの違うところもあります。とくに、時間に関しても感覚が違い、例えばトルコでは日曜日にピクニックへ行こうとすと、時間や場所はトルコの友人同士では当日の朝にでもその時の都合で決めて集まるそうです。日本人は遅くても前日までにきちんと場所や集合時間を確認したがるのでトルコ人が最初は驚くこともあるのだとか。このように、宗教も地理的な環境も全く違うトルコと日本には違う点が沢山ありますが、習慣や考え方が似ている部分も少なくなく、心で通っているのです。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/43f2077aea554de59f9c5afb2ca3249a.jpg" width="1071" height="804" /></p>
<p style="text-align: center;">(トルコを知り、相互理解につながる様々な講座を開催)</p>
<p><strong>トルコと日本、</strong><strong>2</strong><strong>つの文化の在り方</strong></p>
<p>明確な未来像に基づき変容してきた名古屋トルコ日本協会ですが、NPOとしての活動を継続させていくには時代の変化に合わせて活動内容も対応させていかなければなりません。「同じ人間として付き合い、どんな問題もお互いの力を合わせて解決し、平和な関係にしたい」とチェティン理事長は強い想いを持ち、人間と人間は芯の部分で共感し合えるという信念を持っています。</p>
<p>子どもの頃ドイツで現地のドイツ人や自分以外の外国人と交流しながら過ごしたことや、留学生として日本に来て色々な人と触れ合ったチェティン理事長自身の経験が、こうした強い想いになって活動に取り込まれているのです。「幸せに暮らしたい、平和に過ごしたいという同じ目的を持っていながら、お互いのことを知らないから上手くいかないんです。自分の(トルコの)文化が一番いいと押し付けるのではなく、自分たちが持っている言語や文化を提供・シェアし、良いところを見つけながら長い付き合いを作り上げていくことが大事です」。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/14da7f0ddcf94629ad97a14cb07c62a5.jpg" width="1053" height="790" /></p>
<p style="text-align: center;"> (だれでも参加できる「トルコの朝ごはん会」はHPからお申込を)</p>
<p>トルコ人として持つ文化を大切にしながら、日本のことも学んでいくべきと語るチェティン理事長の考え方は、活動を通してボランティアの方々やイベント参加者が体現しています。参加させていただいた「トルコの朝ごはん」や「トルコ語教室」では、トルコ人も日本人も一緒になって言葉や食べ物、習慣を教え合ったり学び合ったりしました。リラックスした空間での肩ひじ張らない人と人との生の交流が、トルコとの距離を縮めてくれます。</p>
<p>今のコミュニティから一歩踏み出して、身近なトルコで「友達」ネットワークを広げるのはそれほど難しいことではないと気づかせてくれます。そんな名古屋トルコ日本協の活動に、あなたも一度触れてみてはいかがでしょうか。そこで出会う人々との人間としての共通点を模索してみたくなるはずです。</p>
<p> </p>
<p><strong>NPO法人名古屋トルコ日本協会</strong> 〒460-0008 名古屋市中区栄2-12-12 アーク栄白川パークビル8階 URL <a href="http://ntja.org/" rel="nofollow">http://ntja.org/</a></p>2020-07-09T06:49:38+00:00Eiji Teruya:Brasil
2018-05-28T01:19:03+00:00tabunka_tokaihttp://mrct.publishers.fm/editor/794/http://mrct.publishers.fm/article/18042/<p>Na Conferência dos Residentes Estrangeiros de Aichi realizada em setembro de 2017, houve o relato de vários jovens com raízes no exterior que serão a base da nova geração e que debateram sobre promover a convivência multicultural na província de Aichi daqui para a frente.</p>
<p>Um deles, foi o Nikkei brasileiro Eiji Teruya, que em 2016, foi o primeiro de nacionalidade brasileira a ser aprovado no exame obrigatório de qualificação nacional para atuar na área jurídica (Shihou Shiken). Esta notícia foi divulgada por várias mídias e animou as pessoas relacionadas nestes assuntos. Apesar de estar muito ocupado por ser um período antes de ingressar no estágio (shihou shuushu), pudemos entrevistar o Teruya no Internacional Plaza, do município de Kariya, que também é considerada uma das suas “cidades de origens”.</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/e5adfa2a15d94e55b0262c0fc59c8812.jpg" /> </p>
<p><strong>-Onde você nasceu?</strong></p>
<p>No Brasil. Nasci na Liberdade, Estado de São Paulo em 1992. Meu avô materno é de Okinawa, e ouvi dizer que ele emigrou de Naha ao Brasil em 1957. Portanto, eu sou descendente de japonês da terceira geração. Fiquei no Brasil até os 8 anos e neste período, fui algumas vezes para Okinawa. Aos 8 anos, vim ao Japão trazido pela minha mãe decasségui.</p>
<p><strong>-Como era a situação assim que chegou ao Japão?</strong></p>
<p>A casa ficava na província de Saitama, na cidade de Kawazoe. Minha mãe trabalhava numa indústria alimentícia, e eu fui matriculado no terceiro ano do shougakkou (3º. ano do ensino fundamental I) próximo a minha casa. Até me acostumar com a rotina escolar foi bastante difícil. Mas, como conversava um pouco com meu avô materno em japonês e tive a sorte de fazer bons amigos não posso dizer que foi extremamente sacrificante. Em vez disso, tive mais dificuldades com a diferença ambiental. Perto da minha casa tinha uma montanha com muitos insetos que eu não gosto (risos).</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/83f7cf5998b94bc589c2594642237b46.jpg" /></p>
<p><strong>-Em que época você veio para a província de Aichi?</strong></p>
<p>Foi na primavera do segundo ano do chuugakkou (8°ano do ensino fundamental II). Devido ao trabalho da minha mãe, vim primeiro para o município de Shinshiro e após um ano mudamos para o município de Kariya. Através do sistema de “recomendação escolar”, ingressei em um Koukou (colégio de ensino médio) do município de Toyota. A faculdade foi na Universidade de Nagoya, mas continuei morando em Kariya. Durante o Koukou, o percurso somente de ida levava mais de 2 horas, portanto foi bastante dificil. Já fazem 10 anos que vim para Kariya. Até agora foi o local mais longo, mais que São Paulo.</p>
<p><strong>-Desde quando começou a pensar em se tornar um advogado?</strong></p>
<p>Aproximadamente no segundo ano do chuugakkou (8°ano do ensino fundamental II). Nessa época, passavam muitas novelas de advogados e eu achava muito legal. Quando ingressei no Koukou (ensino médio), já tinha decidido que ingressaria na faculdade de Direito. Na província de Aichi, universidades públicas que possuem cursos de Direito como a Universidade de Nagoya são muito poucas, portanto, tinha decidido que a minha primeira opção seria entrar no curso de Direito da Universidade de Nagoya e me dediquei com afinco aos estudos. O professor do Koukou era muito prestativo, esforcei-me principalmente em matemática e inglês. Em virtude disso, não precisei frequentar cursinhos preparatórios ou contratar professores particulares e fui aprovado na primeira opção. Sinceramente acredito que isso foi graças aos meus professores e amigos.</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/b71d6047000a4e0b83be040d9a8fc042.jpg" /></p>
<p><strong>-Sua mãe deve ter ficado muito contente também não é?</strong></p>
<p>Sim. Havia falado para ela que almejava a faculdade de Direito, mas ela não sabia muito bem sobre a Universidade de Nagoya. De qualquer forma, ela ficou muito feliz e, logicamente eu também fiquei contente.</p>
<p><strong>-E a vida na universidade também foi diariamente de estudos?</strong></p>
<p>Não, não é exatamente dessa forma. Revezava entre estudos e práticas, e desde o primeiro ano, dentro da universidade participava do círculo de 「Consultas Jurídicas」como voluntário juntamente com os alunos veteranos. No primeiro e segundo, tinha a função de ser o 「secretário」e registrar o conteúdo das consultas feitas pelos alunos veteranos. No terceiro ano, realizava as atividades de receber as consultas e pensar nas respostas, e após a revisão do professor orientador passava para a pessoa que fez as consultas. Havia em média de 60 a 70 consultas por ano, sendo um bom conteúdo para estudos. Além disso, no final do terceiro ano, participei como voluntário do Programa Internacional JETS após ver por casualidade, o poster na faculdade. Ajudei auxiliando os estudos das crianças que necessitam de um suporte especial de uma escolar primária da cidade de Nagoya. Nesta escola havia muitas crianças que tem raízes no exterior, e na sala das crianças que necessitam de apoio especial, haviam várias crianças brasileiras.</p>
<p>Ah, e aliás, no chuugakkou (ensino fundamental II) também estava no clube de arco e flecha, e para pagar as despesas da faculdade, precisei fazer bicos (arubaitos) também. Portanto não fiquei somente estudando (risos)</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/2378f993dc8641f182362f4cfc8c77e6.jpg" /></p>
<p><strong>-Ah era assim (risos). Depois ingressou no curso de mestrado, né?</strong></p>
<p>Sim, estudei 2 anos no mestrado de Leis, conhecido como o「Law School」do curso de Direito da Universidade de Nagoya. Terminei em março de 2016 e em maio fiz o Exame do “Shihou Shiken” ( exame obrigatório de qualificação nacional para atuar na área jurídica ) e em setembro recebi o resultado de “aprovação”, e assim cheguei onde estou agora.</p>
<p><strong>-“Passar na primeira” é muito incrível! Mas, e o que fez depois disso até o presente momento?</strong></p>
<p>Após ser aprovado no “Shihou Shiken” geralmente se faz um estágio para as práticas judiciais, mas antes de fazer o exame, eu pensei em voltar ao Brasil uma vez e ver como está o Brasil atualmente. Através da indicação de um advogado, tive a oportunidade de me encontrar com o Dr. Masato Ninomiya, fazer um estágio no escritório dele durante os meses de março a setembro de 2017, e aprimorar os meus conhecimentos. Por sorte, a casa da minha tia ficava próximo do local, e pude fazer o percurso todos os dias da casa dela.</p>
<p style="text-align: justify;"><img style="margin: 0px;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/c9032634278a477fb0c2cdae096d2aa8.jpg" /></p>
<p><strong>-Como encontrou o Brasil após 10 anos?</strong></p>
<p>Foi muito mais difícil do que eu imaginava. Ainda converso com a minha mãe em português, mas, no Brasil não entendiam o meu português. No dia a dia havia várias situações que tinha dificuldade, principalmente no diálogo por telefone. Quando ia aos restaurantes, havia o sistema de buffet 「por quilo」onde colocamos no prato o que desejamos e de acordo ao peso é calculado o valor a ser pago. Quando tentei perguntar 「este valor está correto?」, não conseguiam me entender.</p>
<p>A maior diferença que senti com o Japão, é com certeza em relação a segurança. No Japão, mesmo ficando bebâdo por tomar bebidas alcoólicas até tarde da noite, não há grandes problemas, mas no Brasil por ser perigoso isso não poderia fazer. Por isso, naturalmente, estava me cuidando para tomar pouco e voltar logo para casa (risos).</p>
<p>No ambiente de trabalho, pude compartilhar diversas situações de consultas e, pela primeira vez, desejei estudar profundamente as Leis do Brasil. Além disso, sinto uma verdadeira admiração pela postura profissional do Dr. Ninomiya. Está sempre ocupado e se esforçando muito, fazendo-me até pensar “que horas será que está dormindo”?</p>
<p><strong>-Logo após o seu retorno, já participou na 「Conferência dos Residentes Estrangeiros de Aichi」promovido pela província de Aichi. O que o levou a esta circunstância?</strong></p>
<p>Através de um conhecido, pude conectar-me com a responsável do Setor de Promoção Multicultural da província de Aichi no mês de maio, e através dela recebi este convite. Como não tinha experiência em expôr minhas idéias ao público, pensei “será que serve eu?”, mas aceitei para poder ser útil de alguma forma.</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/6774d338cb764715b072151eeaff3fa9.jpg" /></p>
<p>Ao participar, achei muito interessante. Os demais participantes eram todos muito divertidos. Pude ouvir várias opiniões diferentes da minha. Por exemplo 「é melhor não auxiliar demais os estrangeiros, pois é importante que eles se tornem independentes」. Com certeza isso é válido, mas eu penso que é necessário oferecer um ambiente de vida adequado onde os indivíduos possam se tornar independentes e criar uma sociedade onde as pessoas que se esforçam e fazem o seu melhor, sejam recompensadas. Eu gostaria de contribuir para isso. É difícil se tornar independente se o ambiente de trabalho, o ambiente educacional, etc. não tiverem uma certa estabilidade. Muitas pessoas ainda estão em uma situação instável. Gostaria de ser a força que ajude estas pessoas.</p>
<p><strong>-Durante a Conferência, também houve o debate sobre tramitar a nacionalidade japonesa não é?</strong></p>
<p>Sim. Penso que cada um deve refletir sobre isso e decidir, não penso que uma decisão seja melhor que a outra. Eu particularmente, desejo seguir com a nacionalidade brasileira. Eu penso que as pessoas que estão na mesma situação que eu (estrangeiros dentro do Japão) podem sentir confiança ao serem atendidos por alguém da mesma nacionalidade. Acredito que poderei pensar e entender melhor estando na mesma posição dos clientes que vêm fazer as consultas.</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/63e882a91e834528a36d1e1fffdb489f.jpg" /></p>
<p><strong>-Isso é um fato. No final, poderia nos dizer os seus planos para o futuro, por favor?</strong></p>
<p>Sim, a partir do próximo mês, irei para o “estágio jurídico” na província de Saitama. O período será de um ano, mas durante esta época terei as práticas em Nagoya e no mês de novembro haverá o 「segundo teste」como é chamado a prova aos alunos que fizeram o estágio, e sendo aprovado, poderei finalmente fazer o registro como advogado. Na verdade, só poderei atuar como advogado depois disso, provavelmente na primavera do ano 2019. Até este momento, vou me dedicar muito aos estudos e ás práticas.</p>
<p><strong>-Agradeço por você responder à esta entrevista hoje apesar de estar tão ocupado. Ficaremos na expectativa da sua atuação!</strong></p>
<p>Muito obrigado!</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/c617db69039a4f12a7b4e87cb5a0b561.jpg" /></p>
<p> </p>
<p><span style="color: #ff6600;"><strong>Tradução:Network Multinacional de Jovens Pas a Pas</strong></span></p>2018-05-28T01:19:03+00:00【個人インタビュー 014】照屋エイジさん
2020-07-09T06:50:13+00:00tabunka_tokaihttp://mrct.publishers.fm/editor/794/http://mrct.publishers.fm/article/17511/<p>2017年9月に開催された「外国人県民あいち会議」には、次世代を担う外国ルーツの若者たちが多数登壇し、これからの愛知県の多文化共生推進に向けて議論を交わしました。</p>
<p>そのお一人、日系ブラジル人の照屋エイジさんは2016年にブラジル国籍者として初めて司法試験に合格。その報せは各種メディアを通じて国内外の関係者を勇気付けました。司法修習が始まる前のお忙しい時期でしたが、照屋さんの“地元”の一つ、刈谷市の国際交流プラザでお話を伺うことができました。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/e5adfa2a15d94e55b0262c0fc59c8812.jpg" /></p>
<p> </p>
<p><strong>—生まれはどちらですか?</strong></p>
<p>ブラジルです。1992年にブラジルのサンパウロ州、リベルダージで生まれました。祖父母が沖縄出身で、祖父は1957年に那覇から渡伯したと聞いています。なので、僕は日系3世になります。ブラジルには8歳までいました。実はその間、何回か沖縄に行ったことがあります。8歳の時、デカセギである母に連れられて来日しました。</p>
<p><strong>—来日直後はどんな様子でしたか?</strong></p>
<p>家は、埼玉県の川越市でした。母は弁当工場で働き、僕は近くの公立小学校の3学年に編入しました。慣れないうちは学校生活も大変でしたが、祖父母とは少し日本語で話していたのと、友達にも恵まれて、めちゃくちゃ苦労したとまでは思いません。それより、生活環境のちがいのほうが辛かったですね。住んでいた家のすぐ近くに山があって、苦手な虫とかがいっぱいいて(苦笑)</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/83f7cf5998b94bc589c2594642237b46.jpg" /> </p>
<p><strong>—愛知県には、いつごろいらしたんですか?</strong></p>
<p>中学2年の春です。母の仕事の関係で、最初は新城市に移って、1年後には今の刈谷市に引っ越しました。推薦で豊田市内の高校に進学して、大学は名古屋大学ですが、家は刈谷市内のままです。高校の時は片道2時間以上かけて通っていたので、けっこう大変でしたね。刈谷に来てもう10年。今まででいちばん長くなりましたね、サンパウロよりも。</p>
<p><strong>—いつごろから弁護士になろうと思われたんですか?</strong></p>
<p>中学2年生ぐらいからです。当時、弁護士モノのドラマをよくやっていて、かっこいいなと思って見ていました。高校に進学したときにはもう、大学は法学部に入るんだって決めていました。愛知県内だと、国公立で法学部があるのは名古屋大学と数えるぐらいしかなかったので、第一志望を名古屋大学法学部と決めて勉強に励みました。高校の先生がとても面倒見がよくて、特に数学と英語をがんばりました。おかげで、塾に行ったり家庭教師を頼んだりすることもなく、第一志望に合格することができました。本当に、先生と友達のおかげだと思っています。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/b71d6047000a4e0b83be040d9a8fc042.jpg" /></p>
<p><strong>—お母さんも喜ばれたでしょうね。</strong></p>
<p>はい。法学部を目指しているということは言っていたんですが、名古屋大学がどんなものかはよくわかっていなかったかもしれません。とにかく、喜んでくれたし、もちろん僕も嬉しかったです。</p>
<p><strong>—大学生活も勉強漬けの毎日だったんですか?</strong></p>
<p>いえ、そんなこともありません。勉強と実践を兼ねて、1年次から学内の「法律相談所」というサークル活動で、先輩たちといっしょに学生や外部の一般の方々の法律相談を受けるボランティアをしていました。1,2年次は「書記」といって、先輩が受ける相談の記録をとる係。3年次から相談を受けて回答を考え、顧問の先生のチェックも受けて相談者にお返しするということをやっていました。年間で60から70件ほども相談があって、とても勉強になりました。</p>
<p>それと、3年次の終わりごろ、たまたま学内のポスターでみかけた「JETS(ジェッツ)」という国際ボランティアにも参加しました。名古屋市内にある小学校の特別支援学級で、子どもたちに勉強を教えるお手伝いをしました。その学校には外国にルーツを持つ子どもが多く通っていて、特別支援学級にもブラジル人の子どもたちが何人かいました。</p>
<p>あ、ちなみに中学は弓道部に入っていたし、大学では学費を稼ぐためにアルバイトもしなきゃいけなかったし、別に勉強だけしかしていなかったわけじゃないんですよ(笑)</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/2378f993dc8641f182362f4cfc8c77e6.jpg" /></p>
<p style="text-align: center;">(ブラジルにて、伯母さんと従兄弟たちと)</p>
<p><strong>—そうなんですね(笑)その後、大学院に進学されたんですよね。</strong></p>
<p>はい、名古屋大学の法科大学院、いわゆる「ロースクール」の既修コースで2年間勉強しました。2016年3月に修了して、5月に司法試験を受け、9月の結果発表で合格になり、今に至ります。</p>
<p><strong>—“一発合格”なんてすごいですね!でも、それから今までは何を?</strong></p>
<p>司法試験に合格したら司法修習を受けるんですが、実は試験を受ける前から、一度ブラジルに帰って、今のブラジルを見てみたいと思っていたんです。それで、弁護士のご紹介で二宮正人(にのみや・まさと)先生にお会いする機会があり、お願いして2017年3月から9月までの半年間、二宮先生の事務所で勉強させてもらうことができました。運良く伯母の家から近かったので、毎日そこから通っていました。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/c9032634278a477fb0c2cdae096d2aa8.jpg" /></p>
<p style="text-align: center;">(二宮法律事務所の先輩たちと)</p>
<p><strong>—10年ぶりのブラジルはどうでしたか?</strong></p>
<p>思っていたより大変でしたね。今でも母とはポルトガル語で会話しているんですが、ブラジルでは僕のポルトガル語がなかなか通じなくて。電話でのやりとりはもちろん、日常生活でも困る場面がありました。食堂に行くと「ポルキロ」といって、ビュッフェ形式でお皿に好きなものを乗せて、その重さに応じて料金を支払うシステムがあるんですが、「本当にこの値段なの?」とかって聞いてもよくわからなくて。</p>
<p>あと、やっぱり日本とのいちばんのちがいは治安ですかね。日本では夜遅くまでお酒を飲んで酔っ払ってもとくに問題ないんですけど、ブラジルでは危なくてできません。自然とお酒の量は控えめに、早めに家に帰るようになりましたね(苦笑)</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/6774d338cb764715b072151eeaff3fa9.jpg" /></p>
<p style="text-align: center;">(ピラルク釣りに挑戦!)</p>
<p>仕事の面では、いろんな相談場面に立ち会うこともできたし、ブラジルの法律についても改めてしっかり学びたいなと思いました。なにより、二宮先生の仕事に対する姿勢は本当に尊敬します。いつ寝ているんだろうかというぐらい、いつも忙しく一生懸命お仕事をされていらっしゃいます。</p>
<p><strong>—帰国して間もなく、愛知県が主催する「外国人県民あいち会議」に登壇されましたね。これはどういう経緯だったんですか?</strong></p>
<p>5月に知り合いを通じて、愛知県多文化共生推進室の担当者とつながり、彼女からオファーを受けました。公の場で何か意見を言うというような経験がなかったので、僕でいいのかなと思いましたが、何か役に立てればとお受けすることにしました。</p>
<p>参加してみたら、とても楽しかったですね。他の登壇者のみなさんが、とても面白い方ばかりで。自分とはちがういろんな考えを聞くこともできました。例えば、「外国人をあまり甘やかせすぎないで、自立させることも大事」という意見がありました。たしかにそれも一つだとは思うんですけど、僕は個々人が自立できるような生活環境を整えること、がんばった人が報われるような社会にすることに貢献していきたいと思っています。労働環境や教育環境など、ある程度安定していないと自立は難しいですからね。まだまだ、不安定な状況に置かれている人も少なくありません。そういう人の力になれたらと思います。</p>
<p><strong>—会議の中では、日本国籍を取得するかどうかという話もありましたね。</strong></p>
<p>はい。どっちがいいとかじゃなくて、それぞれが考えて決めればいいことだと思います。僕自身は、これからもブラジル籍でいようと思っています。自分と同じ立場(=日本における外国人)の人が相談にのってくれる、ということに安心感を覚える人もいると思いますし、僕も相談者により近い立場に立って考えることができると思いますから。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/63e882a91e834528a36d1e1fffdb489f.jpg" /> </p>
<p><strong>—なるほど。最後に、今後の予定について教えてください。</strong></p>
<p>はい、来月から埼玉県で開始される司法修習に参加します。これは約1年間あるんですが、その間に、名古屋で実習があったり、11月には「2回試験」と言われる司法修習生が受ける試験があって、それに合格すると晴れて弁護士登録をすることができます。実際に弁護士として仕事をするのはそのあとなので、早くて2019年の春ぐらいですかね。それまで、しっかり勉強と実習に励みたいと思います。 </p>
<p><strong>—今日はお忙しいところありがとうございました。今後のご活躍を期待しています。</strong></p>
<p>ありがとうございます。 <img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/c617db69039a4f12a7b4e87cb5a0b561.jpg" /></p>2020-07-09T06:50:13+00:00【団体インタビュー 014】NPO法人東海技術交流センター
2020-07-09T06:50:39+00:00tabunka_tokaihttp://mrct.publishers.fm/editor/794/http://mrct.publishers.fm/article/18015/<p>日本の言論NPOと中国国際出版集団が2017年10月~11月に実施した「<a href="http://www.genron-npo.net/world/archives/6837.html" rel="nofollow"><u>日中の両国民を対象とした共同世論調査</u></a>」では、両国とも相手国をよく思う人の割合が前年の調査より増加していました。日本人が中国に「良い」印象を持つ理由として「観光客の増加や民間交流により中国人の存在が身近になっているから」が、47.8%で最多となっています。ここで言われている民間交流とは、どのような形で行われているのでしょうか。</p>
<p>今号では、愛知県名古屋市を拠点に日中間の民間交流の促進に取り組む、NPO法人東海技術交流センターの事務局長、鄧雪宏(トウ・セツコウ)さんにお話を伺いました。</p>
<p style="margin: 0mm 0mm 0.0001pt; font-size: 10.5pt; font-family: Century;"> <img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/faa9846c8a054be89453d563cc5daad7.jpg" width="806" height="605" /></p>
<p style="margin: 0mm 0mm 0.0001pt; text-align: justify; font-size: 10.5pt; font-family: Century;"> </p>
<p style="margin: 0mm 0mm 0.0001pt; text-align: justify; font-size: 10.5pt; font-family: Century;"> </p>
<p><strong>団体設立のきっかけ</strong></p>
<p>NPO法人東海技術交流センターが設立されたのは2005年4月。日中関係の悪化が深刻な年であり、また愛知県で日本国際博覧会(愛・地球博)が開催された年でもありました。中国福建省出身の鄧さんが日本に来たのは、大学を卒業してすぐのことでした。</p>
<p>当時、鄧さんの地元では海外に行くことがブームになっていて、ご自身も「その流れに乗った」のだとか。日本を選んだのは、「近くの国で身近に感じたから」だそうで、大学の先生の紹介により、当時名古屋大学文学部の部長だった森正夫氏(現 名古屋大学・愛知県立大学名誉教授)に、留学生として受け入れられました。鄧さんは、「一度も会ったことが無く、日本語もまったく話せない私を快く受け入れてくださいました。私の恩師です」と当時を振り返ります。</p>
<p>そこから、鄧さんの留学生としての日本生活がはじまりました。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/0dfbaaa56bbb42f08e75d84e822528cd.jpg" width="815" height="611" /></p>
<p>2005年に愛知万博が開催され、鄧さんと交流のあった中国と関係の深い方が日本企業と合同でブースを出して大盛況を納めます。鄧さんは、そうした方々と「中国は日本経済の重要なパートナー。博覧会の開催を機会に中国と日本の間に立って何か役に立つような活動ができないだろうか」と何度も話し合ったそうです。</p>
<p>こうして、考えを同じくする10数名の有志が集まり、団体設立へと歩みを進めて行きました。</p>
<p><strong>「リクルートスーツ」って、何?</strong></p>
<p>設立当初の活動は、万博の開催中だったこともあり、通訳や中国団体の案内役が中心だったそうですが、その後は留学生の生活支援、就職支援などへと活動の幅を広げていきます。しかし、当時こうした活動をするNPOはまだ珍しく、道のりは決して順風満帆ではありませんでした。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/75382af7567d4f19b550312913821fcd.jpg" width="923" height="692" /></p>
<p>「一番大変だったのは、就職フェアをやろうとしても出展企業が集まらなかったことです。当時は今よりも日本の企業は外国人の採用に積極的ではありませんでしたし、私たちにもノウハウが不足していました。今では笑い話ですが、“リクルートスーツ”の意味もわかりませんでした。『え?何ですかそれ??』みたいな(笑)</p>
<p>それから、留学生の生活支援の面では部屋探しがとても大変です。外国人には『貸しません、売りません』と言われることが多くて、これは今でも苦労しています。もちろん、全員の方がそうではありませんけどね。」</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/596ebd89dbb74665bdf9eb83e42b9575.jpg" /></p>
<p style="text-align: center;">(2012年、初期の留学生向け就職説明会)</p>
<p>このように四苦八苦しながらも地道に活動を続けてきた甲斐あって、現在は毎年、年に1回開催している「グローバル人材就職フェア」は、後援団体や出展企業も多く、名古屋商工会議所との共催イベントにまで成長しています。外国人を採用したい企業と日本で働きたい留学生をつなぐイベントで、参加する留学生は多い時で280人もいたそうです。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/df0f7fac6f2a4cebab36dfdaf0dca6bd.jpg" width="840" height="560" /></p>
<p style="text-align: center;">(2017年の留学生第交流会。今ではこんなに大規模に)</p>
<p>「留学生とはいつもつながっています。私達のように留学をきっかけに日本に来て、2〜6年も暮らすと日本に対して良い印象を持つ人が多いです。日本を好きになって、日本で就職したい、日本社会の役に立ちたい、日本の技術などをもっと学びたい、そう考える人達をこれからも支えてあげたいと思います。小さな力かもしれませんが、私達がきっかけで就職できたと喜んでくれる人が少しでも増えればいいと思っています。」と語ってくれた鄧さん。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/e87c43bea3a24ec68f3995ad6ac68b60.jpg" width="1008" height="672" /></p>
<p style="text-align: center;">(熱気に溢れる会場)</p>
<p>一方で、市民活動ならではの苦労も少なくありません。</p>
<p><strong>12</strong><strong>年間ボランティア</strong></p>
<p>「こうした活動は、誰かにあれやれ、これやれと言われてやっているわけではありませんから、私自身はやりたい時にやればいい、できないならやらないでいいかなって思うこともあります。NPOだって、お金も体力も必要ですもの。周りの方々から、『今度いつやるの?』、『来年はいつやりますか?』って言われて、ああ、やっぱりやらなくちゃ!と背中を押されて今日まで続けてきたんです。」</p>
<p>愛知県内には、外国人の方の就職支援を主要事業に掲げるNPOは多くありません。そうした中、NPO法人東海技術交流センターは確実に実績を積んでその内容が評価されているわけですが、経営的には非常に厳しい現実があります。</p>
<p>「完全にボランティアですよ。逆にお金を入れています。趣味です(笑)」と言う鄧さんは、今後も団体の活動範囲を拡大せず、しかし企業との連携をもっと高めるなど事業のクオリティを上げていくことに注力したいと考えています。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/dbacfbc6dcab4b209088b134cc0db981.jpg" width="532" height="354" /></p>
<p style="text-align: center;">(産業界とのパイプ役として東奔西走の日々)</p>
<p>「就職フェアに参加してもらうこともそうですが、学生たちが企業とつながる機会を増やしてあげたいと考えています。例えばインターンシップ。日本人でも会社に就職してみたら、思っていたのと違うといったことがありますよね。自分に合うとか合わないというのは、中に入ってみないとわからないですから。外国人ならなおさらです。こうしたミスマッチを避けるためにインターンシップを利用することはとても重要だと思います。でも、日本のインターンシップは期間が短いですね。中国では1年ぐらいやりますよ。だから、日本でももう少し長くできればいいと思います。それも1社だけでなく、できれば2,3社でやれればいいなと思います。」</p>
<p>また、「就職支援セミナー」では、フェアがきっかけで日本の企業に就職した先輩達のスピーチを聞く機会もどんどん提供していきたいとのこと。依頼を受けた先輩達は皆、「自分のことを伝える機会なんてめったに無いから、自分にとっても勉強になります」と喜んで参加してくれるそうです。</p>
<p style="text-align: center;"><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/5d4ae6135e6b488fb380972ed37ba4c1.jpg" width="907" height="681" /> (今年も開催予定です!)</p>
<p><img />こうした活動を続けながら、鄧さんは新たな事業体を立ち上げ、今年4月に留学生の進学と就職をサポートするASAHI文化学院の運営をスタートさせました。まずは、中国、ネパール、ベトナムから20名の留学生を迎え、日本語の指導や文化を伝えます。学院長は鄧さんの恩師、森正夫氏です。</p>
<p>「NPO活動は、自分が好きでやっています。ただ、活動を続けるには経済的に余裕がなければなりせん」と鄧さん。</p>
<p>NPO法人設立当時のメンバーも入れ替わり、今後は営利・非営利の両輪で留学生の来日から就労までを支援していきます。新しくスタートさせた事業が軌道に乗り、NPO活動とのシナジー効果を発揮して、日本とアジア諸国の関係の発展に寄与する持続可能な取り組みへと成長するよう期待しています。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/6f6fcfdedadd446f9539cee12622bd73.jpg" width="717" height="956" /></p>
<p style="text-align: center;">(お話を伺ったASAHI文化学院の外観) </p>
<p style="text-align: center;"> </p>
<p><strong>NPO法人東海技術交流センター</strong> URL <a href="http://npotokai.com/" rel="nofollow">http://npotokai.com/</a></p>
<p><strong>ASAHI文化学院</strong> URL <a href="http://asahica.com/" rel="nofollow">http://asahica.com/</a> TEL 052−212−7233 *<span style="color: #ff6600;">現在、ASAHI文化学院では日本語教師やベトナム語の通訳を募集されています。詳しくは学院までご連絡ください。</span></p>2020-07-09T06:50:39+00:00【個人インタビュー 013】薛燕さん
2020-07-09T06:51:07+00:00tabunka_tokaihttp://mrct.publishers.fm/editor/794/http://mrct.publishers.fm/article/16975/<p>名古屋市守山区で新疆ウイグル家庭料理店「香膳(カゼン)」を経営する薛燕(ショウ・イエ)さん。料理のおいしさはもちろんのこと、一度来店すると何度も来たくなる魅力がたくさん詰まっている「香膳」。その秘密はショウさんの素敵な人柄にあります。お客さん、ご近所さん、誰からも愛されているショウさんにお話をうかがいました。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/ef28587ae97d426fa9ac10bbff9d185a.png" /> </p>
<p> </p>
<p><strong>日本への道</strong></p>
<p>ショウさんが初めて日本へ来たのは、今から20年前の1995年。ふるさとはハミウリの産地として有名な新疆ウイグル自治区クムル地区のハミ(哈密)です。「町が小さい。外に行きたい」とずっと思っていたというショウさん。ショウさんが33歳のときに、先に妹さんが来日。「チャンスがあれば外に行きたいと、日本語や英語を勉強していました。現在、東京で漢方薬の先生をしている妹のツテで日本に来られることになりました」。</p>
<p>その後、友人の紹介で名古屋にある中京大学へ留学。1年間日本語を勉強しました。その間にご主人に出会って結婚、日本で暮らすこととなりました。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/a364449a9138400d91de0b673db1c3f4.png" /></p>
<p><strong>生い立ち</strong></p>
<p>故郷でのショウさんの家族は7人。「兄2人妹2人という兄妹の中で育ちました。「両親に病気があったため、9歳の頃にラグ麺や肉まん、餃子などの作り方を教わり、その後ずっと家族の食事を私が作っていました。そのため、学校にはあまり行けませんでした」というショウさん。</p>
<p>ご両親が亡くなってから勉強したいという思いが募り、中国の大学に進学しました。「自分の人生を頑張りたい。これまでずっと家族のために料理をしてきたから、当分料理はしたくないし、見たくない。そう思って勉強して大学を卒業して、ハミで会社を作りました」。</p>
<p>当時、ハミでは政府が投資して建物をたくさん作りました。ショウさんは家の内装(電気、壁紙、タイルなど)に必要なものを調達するビジネスを手がけ、成功しました。「そんな頃、妹が日本へ行きました。自分も行きたいと思い続けていたところ、日本へ来るチャンスを手に入れました」。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/ea43a6face494911b31a6d2ddc5f1ba6.jpg" /></p>
<p><strong>留学から</strong></p>
<p>留学中、肉まんや餃子を食べたいと思うことが何度もありました。「日本の肉まんを食べましたが、自分で作ったものとは違うと思いました。そこで、蒸し器を買って自分で作り、近所の人や友達に持っていったら、美味しい美味しいと言ってくれました。『なぜお店をやらないの?』とも度々言われました。でも、お店をやるにはお金がかかるでしょ。」</p>
<p>そんな折、妹のご主人が、出資してくれることになりました。「日本に来てからも何かやりたいと考えていました。」というショウさん。友人の紹介で、現在の店舗に出会い、2008年に営業を開始しました。「最初は店内すべてがカウンターで、商品も肉まんのテイクアウトのみでした。お客さんも少なかった。私はラグ麺、餃子など何でも作れたので、サービスでお客さんに食べてもらっていたら『なぜメニューにしないの?』と言われるようになりました」。</p>
<p>その後、お店での同窓会開催の依頼を受けて、近所から机・椅子を調達してきたことをきっかけに、2012年に店内を改装することになりました。「今では山形や横浜、大阪など遠方から訪ねてくれる人もたくさんいます。一日に二度来店してくれた人もいるのですよ。」</p>
<p><strong><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/1a3b5aabe911444a84b3e513dae97627.jpg" /></strong></p>
<p><strong>コミュニケーションから生まれるもの</strong></p>
<p>「先日、手話をするお客さんが来店しました。子どもさんの入学式の後だったようなので、お祝いの気持ちを込めてラグ麺、餃子とたくさん作ったところ、手話で『美味しい美味しい』とたくさん言ってくれました。言葉は話せなくても身振り手振りで会話できたことが嬉しかったです。」</p>
<p>お客さんとコミュニケーションを取っている時の店内にただよう場を包み込むような温かい雰囲気が好きだというショウさん。以前には、旅行でショウさんの故郷を訪ねるという青年の滞在中の宿泊先や食事を手配したこともありました。「せっかく故郷を訪ねてくれるのだから、自分にできることは何でもやってあげたいと思いました」というショウさん。</p>
<p>“人のために”と相手を想うショウさんの優しさは周りの人々を惹きつける魅力の一つだと思います。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/6b1fe6109863436f83d823e2da95d218.jpg" /></p>
<p><strong>経営へのこだわり</strong></p>
<p>「無添加の良いものを素材の味を活かして料理しています。ラグ麺は機械を使いません。餃子も一個一個手づくりしています。だから、他のものとは生地から全然違うんですよ。厨房をきれいに掃除したり、すべての料理を手作りしたりするのは大変です。苦労はありますが、心の中は幸せです。毎日幸せと言っていますし、そういうことが大事だと考えています。」</p>
<p><img style="margin: 0px;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/5aedf31694fc491a96dd088fc9de846d.jpg" /></p>
<p>週末はお客さんが多く、特に忙しいと言います。「ある時、娘が『お母さんのお店では、お客さんの方からありがとうと言ってくれるんだね』と驚いていることがありました。娘はコンビニでアルバイトをしていますが、いつも自分の方からありがとうございますと繰りかえしているそうです。でも、このお店では逆です。お客さんがキッチンに聞こえるように大きな声で『ありがとう』と言ってくれます。私はお客さんに満足してもらうことを大切にしていています。お金を払った分の価値が得られないと嬉しくないですよね。『おいしい』と食べて満足してもらうことが大事だと考えています」というショウさん。良いものをお客さんが満足するまで提供したい、ショウさんのそのこだわりがたくさんのリピーターを生み出しています。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/983de149615b4b9bbd073bdbb6c72c6c.jpg" /></p>
<p><strong>思いがけないプレゼント</strong></p>
<p>人々とのコミュニケーションを大切にし、お客さんの満足を第一に考え、惜しみないサービスを提供することを心がけている。そんなショウさんの人柄を象徴する出来事がありました。</p>
<p>「先日、私の誕生日前に常連さんから20名の予約がありました。そうしたら、なんと食事の最後にバースデーケーキで誕生日をお祝いしてくれたのです。とても感動しました。また、お店のオープンや改装の時には、近所の方が胡蝶蘭や長机をプレゼントしてくれました。お店を起業する前は、近所の人によく食事を持って行ったり、子ども同士が遊んだりもしていました。今は忙しくて、近所の方と食事をしたり遊んだりする時間がなくなってしまったことが残念ですが、お店で皆さんの笑顔を見られることが幸せです。」</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/9e778fa49b394f2ea0c3e3c20a5cdf27.jpg" /></p>
<p><strong>将来の夢</strong></p>
<p>若い頃は、サッカーをやりたい、自分や家族のこと題材に小説を書きたいなど、様々な夢があったというショウさん。「今の夢は?」との筆者の問いかけに「今はもう若くありません。私は日本に来て夢を実現しました。今の夢はこのお店だけです。たくさんの人に私のつくった料理を食べてもらいたい」と清々しい笑顔で答えてくれました。</p>
<p> </p>
<p><span style="font-family: 'Lucida Grande', 'Hiragino Kaku Gothic Pro', メイリオ, Meiryo, 'ヒラギノ角ゴ Pro W3', Helvetica, Arial, sans-serif; font-size: 16px; color: #ff0000;">*この記事は、2015年5月発行『たぶんか便り』第13号の記事を元にしています。本文内の情報はすべて、発行当時のものです。</span><span style="color: #333333; font-family: 'Lucida Grande', 'Hiragino Kaku Gothic Pro', メイリオ, Meiryo, 'ヒラギノ角ゴ Pro W3', Helvetica, Arial, sans-serif; font-size: 16px;"> </span></p>
<p> </p>
<p><strong>香膳(かぜん)</strong> 〒463-0017 名古屋市守山区喜多山2丁目2-14 ※名鉄瀬戸線「喜多山」駅下車徒歩1分 TEL:052-795-4133 OPEN:11:30~14:00、17:30~21:00 火曜定休 URL: <a href="https://www.facebook.com/silkroad.kazen" rel="nofollow">https://www.facebook.com/silkroad.kazen</a></p>2020-07-09T06:51:07+00:00【団体インタビュー 013】NPO法人交流ネット
2020-07-09T06:51:34+00:00tabunka_tokaihttp://mrct.publishers.fm/editor/794/http://mrct.publishers.fm/article/16974/<p>NPO法人交流ネットは、在日外国人を対象に電話相談を行ったり、社会保険や雇用保険など生活するうえで必要な情報についての説明会を開いたり、インターネットを通して情報提供したりしています。支援を受ける側が自立し、どんな人も平等に楽しく暮らせる社会を目指して、“終わりのない事業(継続的な事業)”をモットーに活動しています。</p>
<p>理事長である舩津丸謙一(ふなつまる・けんいち)さんに、活動への想いと2012年度に新しく三重県四日市市で始めた、児童発達支援・放課後等デイサービス事業について、お話を伺いました。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/331fff70099d445b94fcea5023624326.jpg" /></p>
<p> </p>
<p><strong>― どのようなきっかけで団体ができたのでしょうか?</strong></p>
<p>派遣会社が顧客である企業を大切にするあまり、従業員を守ることより企業の意見を優先する状況になってしまったため、お互いの意見が聞けるように中間に立ちあうものが必要であると思ったのがきっかけです。日本に来て10年経っても日本語が話せない外国人は日本社会では弱者になってしまい、ブルーカラーとしてしてしか生きられません。</p>
<p>外国人を受け入れる基盤をつくらなかった政府や雇用主である派遣会社など、みんなそれぞれに責任はあるのだけれど誰もその責任をとれなくて何もしない。しかし何もしなくていいはずがないと考え、団体を設立しました。 </p>
<p><strong>― 具体的にどのような事業をしていますか?</strong></p>
<p>様々な場所で相談会を行いながら、セミナーでお話をしたり、情報交換したりしています。政府から距離が遠い外国人に情報を届けています。<a href="http://www.jadesas.or.jp/taikai/" rel="nofollow">海外日系人大会</a>など大きなイベントでは、日系外国人の中では現在どのような問題が多くて、そのために政府にこうした対策をしてほしいという要請を伝えています。</p>
<p>リーマンショックが起きた頃、一人のペルー人から「職業訓練を受けたいが外国人向けのものがない」と相談を受けました。200人から署名を集め愛知県に介護ヘルパーの講座開催を要請しました。基金訓練前の初めての無料講座だったため、思ったより応募が多くあり実現することができました。それが今でも介護職員初任者研修という形で続いています。</p>
<p>介護職員初任者研修では日本人が120~130時間ほどで出来ることを外国人は4ヶ月くらいかけてやっています。専門用語の学習が多いため日本語や漢字も教えているからです。卒業生のその後の進路は人それぞれですが、母国に帰って老人ホームをたちあげたペルー人も過去にいました。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/daa24b0992cc49958e539d5e64f4d1a1.jpg" /></p>
<p><strong>― 実際にどのようなところからのニーズや声を受けて事業ができているのでしょうか?</strong></p>
<p>主に電話相談が多いです。現在行っている放課後児童デイサービス事業も電話や相談会で「子どもに障がいがあるがどうしたらよいかわからない」という保護者の声を受けて始まりました。</p>
<p>ただ相談を受けて解決方法を見つけるのではなく、ゴールは何か、何のためにやっているのか、また自立するためにはどう支援したらよいのかを考えて、その先に事業が生まれています。一時的な事業で終わらせるのではなく継続的に事業を実施できるような事業計画を立てています。</p>
<p>また、日本人が受けている行政サービスを在日外国人にはどう結び付けられるかということも考えています。事業には収益が出るものと出ないものがありますので、収益事業の利益を収益の出ない事業に充てるという方法で事業を拡大しています。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/711035cd7c5c4039bb27fa9a5740076b.jpg" /></p>
<p><strong>― エスペランサのスタッフは何名でしょうか?</strong></p>
<p>スタッフは4名です(2014年8月現在)。そのうちポルトガル語・スペイン語を話すことができるスタッフが1名ずついます。通ってきている子どもたちの半数は外国籍で、今日はペルー・ブラジル・ボリビア・日本の子どもたちがいます。子どもたちに合わせて、ポルトガル語、スペイン語、日本語で会話をしています。</p>
<p>エスペランサができる前、地域の小学校の特別支援教室に通っていた外国籍の子どもたちは、学校が終わったあとに通っているところはありませんでした。エスペランサは団地にも近いため、外国籍の子どもたちが多くいます。</p>
<p> </p>
<p><strong>〜スタッフ ミヤノさんのお話〜</strong></p>
<p><strong><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/699b435bbee742bba39263a42549da22.jpg" /></strong></p>
<p><strong>― 今までで一番やりがいを感じたことはどんなことですか?</strong></p>
<p>日に日に成長していく子どもたちを見るのが一番の喜びです。最初は暴れまわったり、物を投げたりしていた子が今では落ち着いて本を読んだり、何より笑った顔を見ることが多くなりました。初めは鉛筆で線をなぞることもできなかった子が、今では上手になぞることができるようになったことなど、成長するのを見ていると仕事にやりがいを感じます。</p>
<p><strong>― 子どもたちへの療育はどのように学びましたか?</strong></p>
<p>毎日が勉強です。子どもたちは一人一人できることが異なるため、それぞれの子ども達に合った内容を考えていかなければならないことは大変です。皆が同じことができるわけではないので、一日の計画を立てるのは難しいです。</p>
<p><strong>― 今まで一番苦労したことはどんなことですか?</strong></p>
<p>立ち上げ当初はたくさん調べものをしたり、団地を回って地域の人に声をかけたり、チラシを配ったり、県庁や市役所に出向いたり、他の施設に訪問したりと、とても苦労しました。今は、重度の障がいを持つ子どもたちが暴れたり、なかなか言うことが通じなかったりすることが大変です。身体は一人前に成長しているため力がとても強く、スタッフ一人では止めることができません。</p>
<p>自分たちには当たり前にできることであっても障がいを持つ子にとっては難しいのだと実感します。大変なことはたくさんありますが、子どもたちにとってエスペランサは必要な場だと思っています。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/fa4d1407527a4521925c0d8555aadd7a.jpg" /></p>
<p><strong>― 子どもたちと接するときに気を付けていることはありますか?</strong></p>
<p>ほとんど部屋の中で生活しているとどうしてもストレスが溜まってしまい、外に勝手に出て行ってしまう子どもたちがいますので、注意して見ていなければなりません。ハサミを振り回したり、外に飛び出すことなどは危険だということがわからない子どもたちに危険を伝えるのは大変です。</p>
<p>しかし、これまで子どもたちが大けがをしたり、問題になるようなことはありませんでした。褒めるときは褒める、怒るときは怒ると、我が子のように接しています。 </p>
<p><strong>― 活動を通じて日本社会の変化を感じることはありますか?</strong></p>
<p>しっかりとお互いに話をすればわかり合えるという考えを持つ人が多くなったと感じています。みんな同じ人間ですから。いろいろな人のお話を聞いていると解決できないことはないのではないかと希望がわきます。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/0ccb49f1f21641649d6c2b26c34c2fca.jpg" /></p>
<p><strong>― 今後の目標は何ですか?</strong></p>
<p>持続可能な事業を行い、団体をさらに拡大していきたいと思っています。終わりのあるものでなく、継続性のある事業をつくっていきたいです。子どもだけでなく大人も高齢者も暮らしやすい社会にしていくことを目指していきます。</p>
<p><span style="color: #ff0000; font-family: 'Lucida Grande', 'Hiragino Kaku Gothic Pro', メイリオ, Meiryo, 'ヒラギノ角ゴ Pro W3', Helvetica, Arial, sans-serif; font-size: 16px;">*この記事は、2015年5月発行『たぶんか便り』第13号の記事を元にしています。本文内の情報はすべて、発行当時のものです。</span></p>
<p> </p>
<p>NPO法人交流ネット URL <a href="http://www.koryunet.org/" target="_blank" rel="noopener nofollow">http://www.koryunet.org</a></p>2020-07-09T06:51:34+00:00【個人インタビュー 012】石井瑞穂さん
2020-07-09T06:52:04+00:00tabunka_tokaihttp://mrct.publishers.fm/editor/794/http://mrct.publishers.fm/article/16933/<p><strong>ハーフは自慢できること ~日韓のハーフに生まれて~</strong></p>
<p>近年、国際結婚の増加に伴い、日本における新生児の50人に1人は外国人と日本人との間に生まれているという統計があります(注1)。現在、グラフィックデザイナーとして活動し、当団体が発行するグルメマップ等のデザインを担当している石井瑞穂(いしい・みずほ)さんも、日本人の父と韓国人の母を持つハーフ(注2)です。</p>
<p>ハーフであることは特別なことではなく、むしろ「自慢できること」だという石井さん。そう思うようになった背景にはどのようなきっかけがあったのか、幼少期や韓国への留学時代のお話を伺いました。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/7b67d75023a54e60aa6f2f5bc4862542.jpg" /></p>
<p>(注1)厚生労働省「<a href="http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/kakutei10/index.html" rel="nofollow">平成22年人口動態統計年報 主要統計表</a>」より。</p>
<p>(注2)「ダブル」や「ミックスルーツ」などの呼称も使われている。</p>
<p> </p>
<p><strong>ー いつ頃からハーフであることを自覚していましたか?</strong></p>
<p>幼稚園の時に自分がハーフであるか知っていたか知らなかったか記憶にないんですが、小学生の時は自分がハーフであることを知っていたような気がします。小学校の長期休みになると頻繁に韓国に遊びに行っていました。日本人の友達が長期休みに田舎のおばあちゃんに会いに行くというのと同じような感覚で小さい頃から韓国によく行っていたので、韓国は本当に私にとって身近な存在でした。小さな頃から韓国を身近に感じていたので、誰かにハーフであると教えられたのではなく、自然と自分がハーフであると知ったんじゃないかなと思います。</p>
<p><strong>ー 家庭の中で韓国に触れる機会はありましたか?</strong></p>
<p>父は韓国語が話せないので、父と母は日本語でコミュニケーションをとっていました。母は日本語を覚えるのに苦労したと思いますが、生活の中で自然と日本語を身に付け、今は流ちょうな名古屋弁を話しています(笑)</p>
<p>私が生まれたときに父と母が日本語と韓国語のどちらの言葉で子どもを育てるかと話し合い、日本語で育てようと決めたようです。当時、母はまだ日本語をあまり話すことができなかったんですが、一生懸命幼い私に日本語で話しかけてくれていたようです。小さい頃から韓国語も話してくれていれば今頃はバイリンガルになっていたのに…と少し残念に思っています。</p>
<p>家庭の中にこれといって「韓国」の文化はありませんでした。冷蔵庫にキムチが比較的よく入っているということくらいですかね(笑)</p>
<p>あとは、韓国では料理を個別に取り分ける文化がなく、私の家でも大皿で箸をつついておかずを食べていました。ときどき食卓に韓国料理が並ぶことはありましたが、母は結婚してから父方の祖母に教わって料理を覚えたので、和食中心の食卓でした。韓国料理が食べたくなって韓国に行くこともあります。やっぱり、韓国のほうが味も美味しくて値段も安いですね。最近は友達に通訳やガイドを頼まれて韓国に行くこともあります。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/2965ac6a26664130945bfe96cbe13a4d.png" width="507" height="644" /></p>
<p><strong>ー 韓国に留学したのはどうしてですか?</strong></p>
<p>進学した芸術大学の交換留学制度の留学先に韓国があることを知って、20歳の時に半年間留学しました。自分のルーツが韓国にあるということは小さい頃から何度も韓国に行くことで体感していましたから、その時の留学は自分のルーツを探すためではなく、せっかく韓国の血が流れているんだから韓国語が話したい、ずっと日本にいるのはもったいない!という想いからでした。</p>
<p>中学校や高校時代に、クラスメイトに「私ってハーフなんだよね」というと「じゃあバイリンガルだね」と言われることが多くて、韓国が話せない事に“悔しい”という気持ちもあったんだと思います。留学するまでは、韓国に遊びに行った時は親戚と会話をすることができず、すべて母が通訳をしてくれていました。小さい時は年の近い従姉妹とは言葉を使わなくていいような遊びしかできませんでした。言葉ができないことにずっともどかしい気持ちを持っていたので、留学をして韓国語が話せるようになって初めて母方の祖母や親戚と会話ができたことはすごく嬉しかったです。</p>
<p>私が韓国語を話せるようになって、祖母が一番喜んでいました。母も私が留学で韓国語が話せるようになって帰って来たことは嬉しかったようですね。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/aafb6f6d427e4cd5883d6ba8b943143a.png" width="404" height="539" /></p>
<p style="text-align: center;">(チマチョゴリがとってもお似合い)</p>
<p><strong>ー 日本と韓国に対してどのような思いを持っていますか?</strong></p>
<p>日本と韓国は一番近い国ですが、仲の良い国とは言いづらい現状があると思います。以前参加したワークショップで日本と韓国の間で起きた過去の問題を許せるか許せないかと議論になりました。</p>
<p>わだかまりのある国同士の国際結婚で生まれた自分自身がその時に伝えたのは、「過去は変えられないし問題は解決しないかもしれないけれど、こうやって私が生まれてきているということは、それを乗り越えてきた人間がいるんだ」ということです。</p>
<p>父と母は仕事を通じて日本で出会いましたが、簡単に結婚できたわけではありませんでした。母側の親戚は祖父世代の人たちが日本兵に殺されていたので「日本人と結婚するなんて」と結婚を反対していたそうです。しかし、誠実な父の性格を知り、「この人とだったら娘は幸せになれる」と結婚を許してくれたそうです。</p>
<p>また、テレビなどで日韓の話題を目にすると、第三者的な立場で2つの国の意見を聞いている自分がいます。友人と日韓の話題になった時に、私が韓国とのハーフと知らずに韓国のことを悪く言われるとあまり気分は良くないですね。そういった時は臨機応変にですが、自分がハーフであることをカミングアウトしています。韓国の現状を知っているので、韓国に対して間違ったことを教え広めようとしている人には、そんなことないよと訂正する時もあります。</p>
<p>現在、特に日韓の架け橋になるような活動はしていませんが、以前韓国語が話せることと教員免許があることがきっかけで、「アジアンビート」という日韓の小学生が一緒に船旅をするという企画で引率をしたことがあります。今後も自分が必要とされることがあれば参加しようと思っています。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/bfa8e9c6b34e450385563b3542a16526.png" /></p>
<p style="text-align: center;">(自身がデザインを手がけたパンフレット)</p>
<p><strong>ー ハーフであることをどのように思いますか?</strong></p>
<p>今までにハーフであることに葛藤や困ったことは一度もありません。ハーフであるということは人に言えないことではなく、小学生の時からハーフであることを自慢に思っていました。韓国に行っても海外に行っているという気分ではなく、すごく身近に感じています。</p>
<p>2つの文化を最初から持って生まれてきて、世界が最初から広いということは自慢できることだと思っています。ハーフの人の中には、自分がハーフであるということを言えないという人もいると思います。それは日本に移民が少なく閉鎖的な国なので、ハーフであることに特別感があるのかなと思います。アメリカなどであればハーフであることは普通のことですからね。</p>
<p>私は特にハーフであるとカミングアウトすることに抵抗感を持っていません。しかし韓国とのハーフであると告げると、「在日朝鮮人?」と聞かれることがあります。その時は訂正します。「在日朝鮮人」の方には、またちがった歴史があります。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/46adc8bf4819477299e65f63fd2c0213.png" /></p>
<p style="text-align: center;">(東日本大震災被災地でのボランティア活動)</p>
<p><strong>ー 国際結婚をしている人に伝えたいことはありますか?</strong></p>
<p>国際結婚をした友人などには、バイリンガルに育てたほうがいいということと、名前は両方の国で発音できる名前にしてあげたほうがいいということをアドバイスしています。私の名前は「みずほ」というのですが、「ず」の発音は韓国の人には難しいようで、名前をちゃんと呼ばれたことがありません(苦笑)</p>
<p>将来もし私自身が結婚して子どもが生まれたら、私がハーフであることを自慢に思ってきたように、子どもにも韓国の血が1/4入っていることを自慢に思ってもらいたいですし、海外が隔たりのある先のところにあるものではなく、パスポートがあれば行ける場所だと思って育ってもらえたら嬉しいです。</p>
<p><img style="margin: 0px; float: left;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/ba7ec15ae0744195b9c6b10738f6fafc.jpg" /></p>
<p> </p>
<p><span style="font-family: 'Lucida Grande', 'Hiragino Kaku Gothic Pro', メイリオ, Meiryo, 'ヒラギノ角ゴ Pro W3', Helvetica, Arial, sans-serif; font-size: 16px; color: #ff0000;">*この記事は、2014年6月発行『たぶんか便り』第12号の記事を元にしています。本文内の情報はすべて、発行当時のものです。</span><span style="color: #333333; font-family: 'Lucida Grande', 'Hiragino Kaku Gothic Pro', メイリオ, Meiryo, 'ヒラギノ角ゴ Pro W3', Helvetica, Arial, sans-serif; font-size: 16px;"> </span></p>2020-07-09T06:52:04+00:00【団体インタビュー 012】日本ユーラシア協会愛知県連合会
2020-07-09T06:52:34+00:00tabunka_tokaihttp://mrct.publishers.fm/editor/794/http://mrct.publishers.fm/article/16932/<p><strong>もう、近くて遠い国ではない。ユーラシアに目をむけよう!</strong> </p>
<p>にぎわう新栄町の大通り。その1本裏の道にある通りに、愛知民主会館はありました。1階にある書店には、労働者問題や原発、日本国憲法などの書籍が並んでいます。この建物の3階に「日本ユーラシア協会愛知県連合会」はあります。「ユーラシア」と聞いて、あれ、どこだろう?と思う人も多いかもしれません。ユーラシア大陸と聞いてはじめてピンとくる人もいるでしょう。冬季オリンピックが開催されたソチがあり、そして今、ウクライナ問題で何かと話題になっているロシアを中心とした、旧ソ連諸国と日本との交流をはかっている団体です。愛知県連合会という名称からもわかるように、全国規模の団体です。今回、愛知県連合会(以下、「愛県連」)理事長の安原勝彦さんにお話を伺いました。</p>
<p> <img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/5982e501ee01438e97adcf7f5cfc4018.png" width="364" height="424" /></p>
<p> </p>
<p> </p>
<p><strong>そう言えば、ロシア語って隣の国の言葉なんだ!</strong></p>
<p>オフィスはこぢんまりしていて、ユーラシアの物産やロシアの有名な人形「マトリョーシカ」などが置いてありました。オフィス訪問時には、安原さんの他に2名のボランティアスタッフさんがお仕事をされていました。ロシア語講師のロシア人の先生も出入りされていたので、時折ロシア語も聞こえてきます。愛県連には有給スタッフはおらず、10名ほどのボランティアスタッフによるシフト制で運営されているそうで、アットホームな雰囲気が伝わってきました。</p>
<p>まず、愛県連が行っているロシア語教室のパンフレットを見せていただきました。そこには「そう言えば、ロシア語って隣の国の言葉なんだ!」というキャッチコピーがありました。そうだ、ロシアって隣国だったんだ!隣国というと、中国や韓国、台湾などを思い浮かべる人が多く、ロシアという国名が浮かぶ人は少ないのではないでしょうか。たしか、北海道小樽出身の友人によると、小樽にはロシアの船員たちも上陸するので、見かけることが多いと言っていました。今でも新潟ではそのような状況であるということは聞いていました。しかし、それ以外の地域の人にとっては、「隣国」と言うにはやはり距離があるような気がします。地図を見ると理解できますが、少しばかり新鮮な驚きでした。</p>
<p>愛県連さんは長い歴史をお持ちです。「日本ユーラシア協会」は、日本とロシアの前身である旧ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)との国交回復日ソ共同宣言を受け、1957年6月29日に「日ソ協会」の名称で、ソ連と当時ソ連に属する国との国際親善を目的に設立されました。その後、ソビエト連邦の崩壊を受け、協会は1993年に名称を「日本ユーラシア協会」に変更しました。設立者は、元総理大臣の鳩山一郎氏です。その後、各都道府県が支部を持つようになっていきます。愛県連は、同年10月に当時名古屋支部として栄に誕生しました。現在の民主連合会館に移転したのは1962年。協会誕生から60年以上、この名古屋市内で、手堅く、ロシア語教室の運営やロシアの文化紹介、そして日本との交流事業に携わっています。</p>
<p>講座の案内を見せていただきました。名古屋圏で唯一のロシア語学習教室です。ロシア語講座は初心者から上級者、また高齢になってからロシア語をはじめる人のためのシニアコースなど、学びやすいようにきめ細かい配慮がされています。講座を受ける人の目的、年齢はさまざまですが、「ロシアが好き」というのが大多数の動機だそうです。また、ロシア語特別講座以外には、合唱団「ミール」というサークルがあり、ロシアの歌をロシア語で歌う合唱団で、月2回くらい練習日を設けているとのことです。他に、ロシア料理のサークルもありました。 </p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/c6fd010afab04c6393493e645ed394b9.png" width="445" height="311" /></p>
<p style="text-align: center;">(結成22年の合唱団、ミール)</p>
<p><strong>ロシア兵捕虜の墓参</strong></p>
<p>愛県連は、ロシアの楽団の招へい、ユーラシアへのツアー企画など、さまざまな文化交流活動をしています。多々ある活動の中で、特に大切にしている行事が、毎年4月の第1日曜日に行われる、平和公園の陸軍墓地の一角にあるロシア人兵士捕虜の墓参です。これは1904年に起こった日露戦争で捕虜となり、日本に連行され、そして名古屋市内の収容所で命を落としたロシア兵たちのお墓に祈りを捧げるものです。15基あるこのお墓は、近年まで放置され忘れられていたそうですが、1990年にソ連に抑留されていた協会の会員が平和公園を訪れた際に、1基のロシア語の墓標と慰霊碑を発見。その碑文を大阪領事館とハリストス教会との共同で解読したところ、15名の捕虜が埋葬されていた事実がわかりました。</p>
<p>そして1992年に日本ユーラシア協会、ハリストス教会、領事館が協力して現在の墓として整備しました。以後、追悼のお墓参りが行われています。このお墓参りの際には、合唱団ミールも追悼の歌を歌います。日露戦争から110年経過した今年のお墓参りは、4月6日に行われました。悲しい事実が背景にはなっているが、名古屋とロシアの縁はこういう形でもつながっているのですね。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/250fb3144b034a4cb38f4acc00826461.png" width="432" height="325" /></p>
<div>
<div>
<div>
<p style="text-align: center;">(24年目を迎えた、ロシア兵士墓地慰霊祭)</p>
</div>
</div>
</div>
<p>ロシアと日本はこの日露戦争、そして北方領土問題など、つらい歴史が存在しています。だが、ともに平和を祈る気持ち、相手を敬う気持ちにはかわりはないはずです。このお墓参りは、両国の平和を祈るとともに、親善の気持ちを新たにする貴重な機会ともなっています。安原さんが話してくださった協会の理念は、政治ではカバーできない部分を民間で補うことだそうです。つまり、草の根の交流で、お互いを知り、お互いの文化を尊重するところから始めることに大きな意味があるということです。それが大きなうねりとなって、世界が動いていくのだと。</p>
<p><strong>多文化共生の視点としての「日本の中のユーラシア」</strong></p>
<p>安原さんに、日本在住のロシアとその関連諸国の人々のことを聞いてみました。近年、この地域の多文化共生といえば、まず多くの場合、浮かぶのが外国人労働者として多く国内に住むブラジルをはじめとする南米諸国出身者で、生活圏でそれぞれコミュニティをつくって生活していることが多々あります。ユーラシア諸国の場合はどうなのでしょうか。</p>
<p>「日本にいるユーラシア諸国の方は、アジアや南米出身者と比べるとはるかに少ないです。多くの場合、日本人との結婚でこの国に住むことになった方々です。ヨーロッパやアメリカでは、主に旧ソ連から亡命ロシア人あるいはロシア系を先祖に持つ人たちがコミュニティをつくって生活していることもありますが、日本ではそういった形ではなく、個人個人で独立している場合が多いようです。やはり、同じ隣国出身でも、朝鮮半島や中国出身の方たちとはそういった意味で、状況が違います。大国でありながら目立たない隣人。それが日本にいるユーラシアの人たちの状況かもしれません。」</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/f62ac84124dc4f09b7c104fd9d59bfac.png" width="428" height="312" /></p>
<p style="text-align: center;">(ロシアフェスティバルで紹介されたアニメ)</p>
<p>人数が多くなり、まとまればそれだけ“声”が大きくなりますが、大きなコミュニティをもたないユーラシア諸国出身者との日本国内での多文化共生を考えた場合、まずロシア語や文化に関心を持った人たちとの小さな交流がスタートします。そして、そのユーラシアの人たちと日本人が交流する場として、愛県連は大きな役割を果たしているのだということがよくわかりました。</p>
<p><strong>地道な活動の継続と行動力</strong></p>
<p>最後に、安原さんがお話ししてくださった面白いエピソードをひとつ紹介したいと思います。安原さんは名古屋市職員として勤務され、労働組合の委員長を務めていたそうです。その当時はまだソビエト連邦だった現ロシアは、アメリカ合衆国とギクシャクした関係が続いていて、1980年代当時の米国大統領ロナルド・レーガンと、ソ連の共産党書記長ゴルバチョフに安原さんは「平和のために努力しなければいけない」と手紙を書きました。その後なんと、ゴルバチョフ書記長から返事がきて、その手紙を預かっているソ連の大使館まで安原さんは手紙を受け取りに行きました。それがきっかけとなり、当時のソ連の大使との交流が生まれ、大使が名古屋を訪問。レセプションが開かれ、大使による中部電力の発電所の見学まで実現しました。この安原さんの行動力はロシアとこの地域の結びつきに多大な貢献をしたのではないでしょうか。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/fc00503b4143443aa5a4669179d9af8e.png" /></p>
<p style="text-align: center;">(子どもたちに受け継がれていくロシアの民族舞踊)</p>
<p>ロシアと日本の間に存在する問題として、北方領土権問題があります。このことについても「文化交流をしつつ政策提言をしていければ」と安原さんは考えています。解決しなければいけない課題はありつつも、隣の国です。ロシアのことをもっと知りたい気持ちになりました。ピロシキ、マトリョーシカだけでない、もっと違ったロシアやユーラシアの国々が見えてくることでしょう。日本ユーラシア協会愛知連合会の長年に渡る地道な草の根の活動、そして安原さんの行動力に感銘を受け、会館を後にしました。これからの日露のさらなる友好関係構築を心から願います。</p>
<p><span style="font-family: 'Lucida Grande', 'Hiragino Kaku Gothic Pro', メイリオ, Meiryo, 'ヒラギノ角ゴ Pro W3', Helvetica, Arial, sans-serif; font-size: 16px; color: #ff0000;">*この記事は、2014年6月発行『たぶんか便り』第12号の記事を元にしています。本文内の情報はすべて、発行当時のものです。</span><span style="color: #333333; font-family: 'Lucida Grande', 'Hiragino Kaku Gothic Pro', メイリオ, Meiryo, 'ヒラギノ角ゴ Pro W3', Helvetica, Arial, sans-serif; font-size: 16px;"> </span> </p>
<p> </p>
<p><strong>日本ユーラシア協会 愛知県連合会</strong> URL <a href="http://nichiyu2015.webcrow.jp/" rel="nofollow">http://nichiyu2015.webcrow.jp/</a></p>2020-07-09T06:52:34+00:00【個人インタビュー 011】市野アンドレアさん
2020-07-09T06:53:04+00:00tabunka_tokaihttp://mrct.publishers.fm/editor/794/http://mrct.publishers.fm/article/16698/<p><strong>国際結婚だからといって他の結婚と変わりはない。文化の違いを楽しんでいる。</strong></p>
<p>ニュージーランド出身のアンドレアさんは、名古屋駅から徒歩5分の「ESOT 旅人の英会話」という英会話スクールで英語講師をされています。スクールの創立者でもある日本人のご主人とは、結婚して5年。幼稚園に通う娘さんと、もうすぐ2歳になる息子さんがいて、現在3人目のお子さんを妊娠中です。そんなアンドレアさんに国際結婚について、また、日本で妻として、母として生活することについてお話を伺いました。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/c7bfa0e74b044a7ea7f4c3b221935038.jpg" /></p>
<p> </p>
<p> </p>
<p><strong>日本の第一印象</strong></p>
<p>アンドレアさんが初めて日本に来たのは18歳の時。ニュージーランドの高校で日本語を学んでいました。卒業後、日本語を学ぶために奨学金をもらって、東京に10か月間滞在しました。ニュージーランドの小さな町とは違って東京は空気が汚れていたので、コンタクトレンズを付けていられず眼鏡に変えたり、ジョギング中に息苦しく感じたりしたそうです。最初は超高層のビル群にも驚いて、「東京は、ただただ大きかった」という印象だったと言います。 </p>
<p><strong>NARESOME</strong></p>
<p>ご主人との出会いはなんと船の上、ピースボート(注1)でした。アンドレアさんは静岡県浜松市内の中学校でALT(注2)として2年間勤めた後、ピースボートの運営する地球一周の船旅に乗船しました。アンドレアさんはボランティアの英語講師として、ご主人は一般の乗客としてピースボートに乗っていました。二人が言葉を交わすようになったのは、インド洋の島国セイシェルを訪れた時、一緒にスキューバダイビングに行く仲間を探していたご主人に誘われたことが出会ったきっかけだったと言います。ご主人の第一印象は「CuteでFriendly!」。その時はまだお互いのことを何も知らなかったそうですが、船内のデートショーという企画に疑似カップルとして出場してから会話する機会が増えたと言います。“お友達” として、アテネやキューバなどで一緒に時間を過ごすうちに仲が深まっていったのだとか。そして船旅の後半、ペルーのマチュピチュへ二人だけで行くことになり、そこから “恋人” になって日本に戻ってきたそうです。</p>
<p style="text-align: center;"><img style="margin: 0px;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/1e2e1c5137a847109773db3c4976bc04.jpg" /></p>
<p>その後、アンドレアさんは以前から予定していた空手の黒帯の昇段審査のために半年間浜松に滞在し、ご主人はその間、オーストラリアのワーキングホリデーに行きました。ご主人の帰国後、一日あけてすれ違うように、今度はアンドレアさんがワーキングホリデーでカナダへ。しばらくしてからご主人もアンドレアさんを追いかけるようにカナダへ。やっと2人で過ごせるようになり、それから約1年間、今度は2人だけでバックパックを背負って世界一周の旅へ。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/7fa2b2facbea4155958fba54aa4b055a.jpg" /></p>
<p style="text-align: center;">(写真右上、ESOTには当時のバックパックが)</p>
<p><strong>日本一のプロポーズ?</strong></p>
<p>日本に帰国した二人はというと、ある日アンドレアさんのお父さんが日本へ遊びに来たため、ご主人と3人一緒に富士登山に行きました。富士山の頂上でご主人が突然、「アンドレア、ちょっと来て」と呼び出し、なんとその場でプロポーズ!お父さんもいらっしゃるのに突然!?と驚くかもしれませんが、実は登山中、ご主人はお父さんにこっそりプロポーズの許可ももらっていたそうで、「No problem」だったそうです。ご主人はとてもアクティブで、ピースボートの時には、ご主人が自主的に企画するイベントが毎日のように行われていたそうです。日本に帰国してからもそれは変わらず、そのアクティブさがご主人の魅力だと話してくれました。 </p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/ee20174dcee243dbaac9212ac7230700.jpg" /></p>
<p><strong>“外国人妻” の苦労</strong></p>
<p>現在は家族仲睦まじくさているアンドレアさんですが、最初は不安もあったそうです。アンドレアさんのご両親からは、ご主人に関しても日本に関しても特に反対はなかったそうですが、ご主人のご家族は元々外国に長期滞在していたご主人に「外国人のお嫁さんは連れて帰ってくるなよ」と言っていたのだとか。でも、実際にアンドレアさんと会ってみて、「この人ならやっていけそうと思ってくれたみたいです」とアンドレアさん。ご主人のご両親も孫たちを可愛がってくれていて、お隣に住んでいるお義母さんがよくお子さんの面倒を見てくれるそうです。</p>
<p>娘さんの通う幼稚園で出会うお母さんたちは当初、アンドレアさんに興味を示しつつも、あまり声はかけてこなかったのだとか。アンドレアさんは、「たぶん、英語ができないから」だろうと考えています。以前、保護者が集まってのランチ会で、他のお母さんから「(アンドレアさんと)ずっと話してみたかったの。言葉が通じないんじゃないかと思っていたけど、日本語が話せると知って安心したわ」と話しかけられたことがありました。でも多くの場合、自分は無視されているように感じてしまうのだと。「ニュージーランドでなら普通に他のお母さんたちと上手く関係を作っていけるのに、それができないのは悲しい」とアンドレアさん。「でも、しょうがない。もっと日本語を上達させる以外に、私にできることはない」と言います。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/f072c6d398194c3789789c997e17be16.jpg" /></p>
<p> </p>
<p><strong>日本での生活について</strong></p>
<p>アンドレアさんにとって、日本の生活は「快適!」だそうです。その理由の一つは、日本語がある程度できるからだろうと言います。「日本語は必要。日本語なしだと日本での生活は難しい。日本語なしで生活していく外国人もいるけど、長い間生活していくなら日本語ができたほうが日本での生活は楽になるし、楽しくなる。日本で母国語の通じる友人が多くて日本語をあまり必要としない外国人もいるけど、日本語ができないとスーパーで買い物一つするのにも苦労します。小麦粉と砂糖の区別もつかない」と、日本語の必要性を話してくれました。</p>
<p>それでもまだ漢字や複雑な会話は苦手なので、幼稚園からのお便りはご主人に訳してもらったり、先生に連絡するときはご主人に書いてもらったりと、人の助けを借りないといけないこともあって、それにはストレスを感じていると言います。一方で幸運なことに、地元の産婦人科の院長先生は英語ができたのでやり取りには困らなかったし、出産時はご主人が付き添って通訳をしてくれたので言葉によるストレスもなく、戸惑わずに済んだそうです。現在、お子さんの将来のことも考えて家庭内ではできるだけ英語を使っていますが、ご主人が日本語で話しかけると英語で応えたり、日本語と英語がごちゃ混ぜになることもあるようです。</p>
<p>日本人の英語学習について何かアドバイスをと聞いてみると、「日本人は文法ができるから読み書きは上手。問題なのは、ミスを恐れて話さないこと。完璧な文で話さなければいけないと思っている人が多いように感じます。でも、ミスを恐れなくていいんです。コミュニケーションすることがいちばん重要。正しい英語は練習した後にできるようになるもの。だから、とにかくたくさん話して!」と教えてくれました。 </p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/ee6f787f9808456d949ca02deb7110b5.jpg" /></p>
<p><strong>これからのこと</strong></p>
<p>アンドレアさんは、今後もずっと日本で暮らすつもりだと言います。「日本に来る時は不安もあったけど、今は幸せだから」。でも、将来はどうなるかわからない、とも。「ニュージーランドの両親に何かあった時のことを思うと、その時、近くにいられるだろうかと心配になる」のだと。</p>
<p>また、二人いるお兄さんたちはどちらも国際結婚で、今はニュージーランドで暮らしているそうです。国際結婚はどうですか?という質問に、「国際結婚と言っても、他の結婚と変わらないですよ。結婚生活は楽しい。私は日本の文化について学び、主人はニュージーランドの文化について学ぶ。文化の違いというのは、やぅtぱり面白いですよ」と答えてくれました。娘さんのための週に一度のお弁当作りも楽しんでやっているそうです。</p>
<p>ニュージーランドと日本の子育てには、いろいろと違いもあるそうです。アンドレアさんは、ニュージーランドの子どものほうが自立しているように感じるそうです。小さい頃から親とは別々の部屋で寝るし、お弁当は自分で作り、家事の担当もある。週に一回だから楽しい、というお弁当作りだけど、高校生になると毎日お弁当が必要になるかもしれないので、「毎日のお弁当づくりは大変だから、高校生になったら自分で作ってもらう!」と笑いながら話してくれました。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/fcebed6a5f8443e7a3bbe12899377c15.jpg" /></p>
<p><strong>人生のモットー</strong></p>
<p>人生のモットーは何ですか?と聞くと、「ポジティブでいようと努めること」とアンドレアさん。「完璧な生活を送っている人なんていません。一見、完璧に見えてもその人の背景に何があるかはわからない。だから、自分の身に起こることに感謝することが大切」と。例えば、仕事が見つからなかったり、不採用になったりする時も、きっともっといい仕事があるから今回は不採用だったんだと思うようにしているのだと。「言うのは簡単でも、やろうとすると難しい。いつもポジティブではいられないけど、ポジティブでいようと心がけること」がアンドレアさんのモットーです。そんな前向きなアンドレアさんのこれからの生活と、ご主人はじめご家族のご多幸を願ってやみません。アンドレアさん、お幸せに!</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/6b0916f70b0c48aaad6eb62336b91820.jpg" width="865" height="576" /></p>
<p>(注1)ピースボート:ここでは、1983年に設立された国際交流NGO「ピースボート」が行なっている世界一周船の旅のこと。 <a href="http://peaceboat.org/" rel="nofollow">http://peaceboat.org/</a></p>
<p>(注2)ALT:Assistant Langage Teacher(外国語指導助手)の略。 <a href="http://jetprogramme.org/ja/positions/" rel="nofollow">http://jetprogramme.org/ja/positions/</a></p>
<p> </p>
<p style="margin: 0px 0px 25px; color: #333333; font-family: 'Lucida Grande', 'Hiragino Kaku Gothic Pro', メイリオ, Meiryo, 'ヒラギノ角ゴ Pro W3', Helvetica, Arial, sans-serif; font-size: 16px;"><span style="color: #ff0000;">*この記事は、2013年4月発行『たぶんか便り』第11号の記事を元にしています。本文内の情報はすべて、発行当時のものです。</span> </p>
<p>ESOT旅人の英会話(エソット:English School of Travelers) URL:<a href="http://www.esot.jp" rel="nofollow">http://www.esot.jp</a></p>
<p> </p>2020-07-09T06:53:04+00:00【団体インタビュー 011】NPO子どもと女性のイスラームの会
2020-07-09T06:53:44+00:00tabunka_tokaihttp://mrct.publishers.fm/editor/794/http://mrct.publishers.fm/article/16689/<p>2010年10月、日本で国際テロ捜査情報が流出しました。日本に在住する敬虔なイスラーム教徒が事実無根の疑いをかけられました。その中では、子どもたちが「ホーム・グローン・テロリスト(家庭内で培養されているテロリストたち)」とされていました。そのような状況の中で、NPO子どもと女性のイスラームの(Children and Women Islamic Association)会代表の戸谷さんは2010年8月に団体を発足しました。</p>
<p> 「イスラームにつながる人々とその地域で共に暮らす人々が顔のみえる関係をつくり、ゆっくり、じっくりイスラームをわかってもらえるようにという思いからです」と言います。地域に根差した主な活動としては日本語教室、絵本読み聞かせ、ハラールで作る名古屋飯の料理教室、地域の活動グループ等と協力して、子どものための子どもが演奏するJAZZコンサートの運営支援や、個人としてASEANからのムスリムのホームステイ受入等と多岐に渡ります。また法人向けにハラール相談事業も行っています。今回は代表のマリアム戸谷玲子さん、事務局長のニムラ赤尾奈美さんにお話しを伺いました。お二人は国際結婚を機にイスラームへ改宗された女性たちです。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/7e7c2ef2bc8c4218b5c2148c23aa2751.jpg" width="473" height="354" /></p>
<p style="text-align: center;"> (左、事務局長の赤尾さん 右、代表の戸谷さん)</p>
<p style="text-align: center;"> </p>
<p style="text-align: center;"> </p>
<p><strong>氾濫する情報の中で</strong></p>
<p>国内ではまだまだイスラーム、ムスリム、ムスリマ(頁下部の【用語解説】参照)について知識を得たり、彼ら彼女らと接する機会が少ないため、メディア等からの情報で影響が生じることがあるといいます。「2013年1月のアルジェリア人質拘束事件のあった頃、いろいろなものが差し止めになりました。イスラームと名前が付くだけで助成金も取れませんでした。しかし最近では、観光業でイスラームの人や国が注目され、観光に来る人数が多いのはムスリムだという認識が広がった瞬間にウェルカム!と対応が変わってしまいました」と、戸谷さん。メディアの報道に振り回されることが多くあり、未だにハラールとして扱われた中に間違っている情報があり訂正を繰り返し続けているそうです。</p>
<p><strong>本当のムスリムフレンドリー</strong></p>
<p>「ムスリムフレンドリー」という、世界約17億人いるイスラーム教徒の人たちに日本を知ってもらうための受入企画が展開されていますが、当事者として課題を感じているそうです。「既存のシステムを変えるには時間がかかります。ハラールを指導する特にムスリムではない公的機関の日本人側は、『あれはダメ。』『これはこうしてください。』と言いますが、きちんとした指導ができず、あやふやになっていると感じます。『経済活性化の為にムスリムには来てほしいが、ハラールのことはよくわからない。でも、フレンドリーにしましょう』というのは容認できないと感じています。当事者の私達の意見を取り入れてもらい、それに基づいてやっていけたらと思っています。」</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/dd7c7ec4fee54c498ad4c225a767a04f.jpg" /></p>
<p style="text-align: center;">(ハラール認証マークのついたもの)</p>
<p>では、日本が真のムスリムフレンドリーな国になるために、日本人に大切にしてほしいことは何でしょうか。</p>
<p>「日本人は難しく考えすぎてしまっています。もっと楽な気持ちで受け入れてもらえたら嬉しいですね。コミュニケーションが大事だと思います。多文化なインドやヨーロッパでは、ムスリムでない人はムスリムのところに入り込もうとはしません。一方で日本では、ムスリムでない人がムスリムの教義に入り込んで、〝私たちはムスリムフレンドリーです!” と言っています。ムスリムの私たちからすると、ムスリムではない人が「これはハラールです、これはちがいます」などと言っていることにとても違和感を感じます。いい加減に取り扱ってはいけないけど、自分とは相容れないという線を引いていることで、真のムスリムフレンドリーの概念が生まれていないのかもしれません。日本人は仲良くしたいから(相手の意見を聞く前に)自分から何でも提供しようとしてしまっていると思います。仲良くするなら相手を尊重する、仲良くするなら相手を愛するのが大事です。」</p>
<p><strong>世界のイスラームと日本のイスラーム</strong></p>
<p>国際結婚を機にイスラームに “改宗”されたお二人。“必然的” にイスラームの家庭で育つことになる子どもたちについてどんな想いを持っているのでしょうか。</p>
<p>「多くの子どもはここ(日本)で育ってイスラームを信仰しますが、日本人です。イスラームが周りからあまり良いイメージを持たれていない中で、同時に日本人としてのアイデンティティを保持することは難しいです。世界を見渡すとどの国にも移民が来ていて、今日は給食がハラールだったとか、街に出ればお友達とハラールのハンバーガーを食べようという選択ができるところもあります。しかし、日本ではまだできません。子どもたちがどこにお友達と遊びに行ってもハラールの環境があるようになることが目標です。それしか食べられないことを、かわいそう、残念ねと思われないようにしたいです。食べものは人間にとって大事なものです。お友達と同じものが食べられる安心感、例えばショッピングモールのフードコードにハラールが1つある希み。同じものが食べられなくても同じ場所で食べられる、にこやかに過ごせる輪に入れたら良いと思います。言葉、食べ物、生活習慣を尊重し合ってお互いを認め合ってほしいです。」</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/7cb1c2577ea649108112cf711fe0315d.jpg" width="561" height="419" /></p>
<p style="text-align: center;">(名古屋市中村区で開催された、人権講座「ハラールを食べよう!」の様子)</p>
<p><strong>当事者を大事にする</strong></p>
<p>多様な活動を多くの方と展開されている、子どもと女性のイスラームの会さん。多種多様な取り組みをされる中でポイントとなっているのが “当事者” というキーワードです。親子で楽しむ外国語での絵本の読み聞かせ会、子どものための子どもが演奏するジャズコンサート、ASEANからのホームステイ受入れでも、〝当事者" ということをとても大事にされています。読み聞かせを外国人自身がされている理由について、「実際に人に会って頂くことを大切にしたいと思っています。実際の私たち、当事者とふれあわずにいろいろな物事が進んで結論が出てしまっている気がしています。本物にふれあっていただこうということが私たちの主旨です。」と、お話ししてくださいました。</p>
<p style="text-align: center;"><img style="margin: 0px;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/af2360d3822742318c663ddca162814b.jpg" /></p>
<p style="text-align: center;">(マレーシアのご家族による絵本の読み聞かせの様子)</p>
<p> <strong>ASEANからたくさんホームステイの希望がある中、なかなかムスリムを受け入れられる家庭がない。</strong></p>
<p>「日本人にはイスラームで大事にしていることがまだまだ理解されていないのです。ムスリムの人にしてみれば日本に来てみたい、来たからには日本食が食べたい、でも戒律は守りたいのです。あるアルジェリアの留学生は餃子、ラーメン、肉まんを食べたことがなくて、あれはなんだろう?すごく宣伝もしているから食べてみたい!と思っていましたが、ハラームだからと諦めていました。そこでハラールでそれらを作ったらとても喜んでくれました。まだまだ上手く伝えきれていませんが、ホームステイを受け入れている家族に日本食も工夫次第でハラールで作れることをもっと伝えていきたいと思っています。」</p>
<p>戸谷さんは「日本に来て、日本の魅力を全然知らずに帰って行く人がまだまだたくさんいます」と言います。「日本の食事を食べてみたいという相手の気持ちを大事にすることが、当たり前になることが必要だと思います。」</p>
<p><strong>“選択できる人” になるために</strong></p>
<p>どこに行ってもハラールとハラームがあります。手で何かを叩けばハラーム。でも手で美味しいものをつくったり、子どもを抱くなど、可愛がったりするのはハラール。私は子どもたちにハラールを選べるように育てたいと思っています。どこの場所に行っても自分で選べる人に。お酒の出る場所やファミレスなども行くこともあります。そこでお酒を飲んでにこにこしてその後もどこかへみんなと遊びに行くとなるとハラーム、しかしきちんと食事をしてジュースを飲んで時間になって帰るとなればハラール。これを私たちは子どもたちに教えていかなければいけません。ファミレスでもお酒は出るし、お寿司屋さんでもハムは回ってきます。ここで選べる、きちんと宗教にのっとった選択をするということをムスリムとして子どもたちに伝えなければいけません。そのために、積極的に外に出るようにしています。</p>
<p>ムスリムの子どもだけではなくて、自分で自分の大切なものを選べるようになることは、これからのすべての子どもたちにとって大切なことです。ピーナッツアレルギーの子がピーナッツしかないから周りと合わせて一緒になって食べるのではなく、『いらない』と選択できることが大事。子どもに自分の置かれた状況を説明し、教育をすることが大切です。その子が自分で食べないという選択をして自分の身を守らないと病院へ行くことになってしまいます。自分でいらないものを自分で選び、他の人に言われたとしても自分で断れるように、子どもに伝えています。人と違っても自分にいらないものは拒否できるようになってほしいです。拒否することが悪いことではなく、自分の身を自分で守ることであり、大切な意見であると周りの方にもご理解いただければ嬉しいと思います。日本でもお酒に呑まれてしまったというようなニュースを時々耳にします。自分は飲まない、あなたとは帰らないとなるといいですね。「私はそれはしないの、それでハッピーなの」ときちんと言える人になるように、子どもたちに伝えていくことを念頭にいつもおいています。</p>
<p><span style="color: #ff0000; font-family: 'Lucida Grande', 'Hiragino Kaku Gothic Pro', メイリオ, Meiryo, 'ヒラギノ角ゴ Pro W3', Helvetica, Arial, sans-serif; font-size: 16px;">*この記事は、2013年4月発行『たぶんか便り』第11号の記事を元にしています。本文内の情報はすべて、発行当時のものです。</span> </p>
<p>【用語解説】</p>
<table style="height: 237px; width: 552px;">
<tbody>
<tr style="height: 24px;">
<td style="width: 181px; height: 24px;">イスラーム</td>
<td style="width: 365px; height: 24px;">聖典クルアーンと預言者言行録ハディースによって規定する体系を指すムスリムの信仰生活</td>
</tr>
<tr style="height: 22px;">
<td style="width: 181px; height: 22px;">ムスリム</td>
<td style="width: 365px; height: 22px;">イスラーム教徒の男性(アラビア語社会以外では基本的に区別しない)</td>
</tr>
<tr style="height: 9px;">
<td style="width: 181px; height: 9px;">ムスリマ</td>
<td style="width: 365px; height: 9px;">イスラーム教徒の女性</td>
</tr>
<tr style="height: 6px;">
<td style="width: 181px; height: 6px;">アルジェリア人質拘束事件</td>
<td style="width: 365px; height: 6px;">2013年1月16日、アルジェリアの天然ガス精製プラント起きた人質拘束事件</td>
</tr>
<tr style="height: 6px;">
<td style="width: 181px; height: 6px;">ハラール</td>
<td style="width: 365px; height: 6px;">イスラーム法で許された項目(≒イスラーム法で食べられるものを表す)</td>
</tr>
<tr style="height: 3px;">
<td style="width: 181px; height: 3px;">ハラーム</td>
<td style="width: 365px; height: 3px;">イスラーム法で許されない項目(ハラールの反対)</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p> </p>
<p>(参考)「ムスリムフレンドリー」 <a href="http://muslim-friendly-japan.com/seminar.html" rel="nofollow">http://muslim-friendly-japan.com/seminar.html</a></p>
<p> </p>
<p>NPO非営利活動任意団体 子どもと女性のイスラームの会 URL:<a href="http://childrenislam.org" rel="nofollow">http://childrenislam.org</a></p>
<p> </p>2020-07-09T06:53:44+00:00【個人インタビュー 010】細谷レックスマーク賢治さん
2018-05-25T01:27:10+00:00tabunka_tokaihttp://mrct.publishers.fm/editor/794/http://mrct.publishers.fm/article/16705/<p><strong>人がかかわるムーブメントを起こしたい</strong></p>
<p>細谷(ほそや)レックスマーク賢治さんは8歳のクリスマスの日に来日しました。来日後すぐ、小学校2年生の3学期に日本の公立学校に編入。学校ではただ一人の外国人だったからか、なかなか友達ができませんでしたが、おしゃべり好きな性格が功を奏して日本語を覚えるのは早かったと言います。高校卒業後、就職したレックスさん。荒れた時期もありましたが、現在は仕事の傍ら音楽活動や多文化共生を広める活動に積極的に参加しています。そんな人間味溢れる魅力的なレックスさんにお話を聞きました。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/36def96d141247ba9ade370db9440c5e.png" /></p>
<p><strong>ブラジルと日本の狭間で</strong></p>
<p>近年、親子関係がうまくいっていないという人からよく相談を受けるというレックスさん。小学生の頃は、ブラジルと日本の2つのルールの中で迷うことも 多かったと言います。「家の中ではブラジルのルール、学校では日本のルールを守るように言われましたが、中には相反するものもあって選択するのが難しかったです。」と、家庭・社会・学校でそれぞれ周りから言われることが異なり、何が正しいのかわからなくて悩んだそうです。「それから、家の中でみんなが笑ってくれたことを学校で話しても誰も笑ってくれなかったり、学校で楽しかったことを家で話しても理解してもらえなかったりしました」とも。</p>
<p><strong>自分の芯をつくるもの</strong></p>
<p>今では日本語もポルトガル語も流暢に話すレックスさん。普段の生活は日本語 で送ることが多いにもかかわらず、ポルトガル語も保持しています。「来日してからずっと、家の中ではポルトガル語を話しています。自分をここまで育ててくれたのは親ですが、 教育は兄姉の影響が大きいです。幼い頃、兄姉にポルトガル語が下手だと言われて悔しかったんです。でも、その時の悔しさかがあったから今でもポルトガル語が話せるのかなと」。</p>
<p>小学校3年生の時には、レックスさんの“芯”をつくる出来事があったそうです。「プールに行ったとき、順番待ちをしていたら、上級生に『横入りをした』と言われてぶつかられました。泣きながら兄のもとに帰ると、『何でやり返さずに帰ってきたんだ』と怒られました。兄は、僕が何でも誰かに助けてもらえると思わないように指導してくれていたんですね」。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/d47273bc40884b0f85866c8f65ae69a3.jpg" /></p>
<p><strong>ブラジル人?日本人?</strong></p>
<p>思春期になると、自分はいったい何人(なにじん)なのかと思い悩んだと言います。ブラジルよりも日本での暮らしのほうがずっと長い。ブラジルのことは知っていることも多いけど、8歳までしかいなかったので知らないことも多い。転機が訪れたのは、23歳でカナダに留学したときでした。「カナダに行って、いろいろな人種の人に出会って、これまで思い悩んできたことが解消されました。帰ってきてから、自分は日本人でもブラジル人でもない“地球人”だと思うようになりました。自分が何人(なにじん)かは誰かが決めるものではなくて、自分自身が決めるものですから」。</p>
<p><strong>マイナスをプラスに変える</strong></p>
<p>レックスさんは、警察からの職務質問など、外国人ということで嫌な思いをさせられたときでも丁寧に対応するようにしているそうです。「少しでも外国人の印象を良くしたいので、『大変ですね』と労(ねぎら)いの言葉をかけるようにしています。『外国人だからって、どうして差別するんだ!』と言い返しても何も良くなりません。来日当初、デパートに行った時『外国人が入店しました』というアナウンスが流れていました。でも最近は、テレビを見ていても好感度が高い外国人やハーフも多く出てきています。変わってきているなと感じます」。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/8d764f53f799477db871817b2d0b4a5d.jpg" /></p>
<p><strong>同胞への想い</strong></p>
<p>8年ぐらい前から、多文化共生関連のイベントに積極的に参加しているというレックスさん。「日本人がこれだけ一生懸命関わろうとしてくれているのに、外国人はどこまで日本人に心を開こうとしているのだろうかと思うことがあります。日本社会から与えられているものに、外国人がどのくらい反応できているのでしょうか。日本人は謙虚で、頼んだことはやってくれるという性質があり、ブラジル人は自発的だけど、お願いしたことを聞いてくれないという傾向があると思います。ここは日本なので、外国人が自分たちから日本社会に入っていく努力は必要だと思います。時々、日本人の支援者から『外国人の子どもたちのために教育を変える必要はありますか?』と聞かれますが、外国人だけのためにする必要はないと思います。日本人の子どもも含めての改善なら必要だと思いますが。ただ、外国人の親への教育は絶対に必要だと思います」。</p>
<p><strong>見えない壁</strong></p>
<p>日本人と外国人の間にある“見えない壁”を取り払うために、日本人がすることはないと言うレックスさん。「強(し)いて言うなら、を作らないこと。ダブルリミテッド(注)になっている人の多くは、“逃げ道”があったのだと思います。 大人になると、乗り越えないといけないことはたくさんあります。子どもの時に簡単に“逃げ道”を与えないことが大事です。その時は苦しくても、あとから振り返ると良かったと思える時期が必ずやってきます。“逃げ道”はいりません」。</p>
<p>(注)「ダブルリミテッド」とは、2つの言語どちらも年齢相応の言語能力がついていない状態のことで、「セミリンガル」と言われることもあります。</p>
<p><strong>The TOKAI Branch of the "GAIJIN"</strong></p>
<p>2013年2月、当事者の声を発信することを目的に、レックスさんは仲間とともにグループ「The TOKAI Branch of the "GAIJIN"」を立ち上げました。7月には「多文化わかものカンファレンス」という外国にルーツをもつ若者と日本人が話し合い、交流するイベントを開催しました。「コミュニティ内は似たもの同士です。コミュニティの外の人と友達になり、何をするでもなく、そばにいることが大事だと思います。交流会に来てくれた日本人の高校生が、『最初は本当につまらないと思ったけど、今は楽しい。来てよかった。こうした交流会が必要ない世界になればいい。日常からこうした関わりはできるんだから』という高校生の言葉を聞いて、僕の目指す社会はこれだ!と思いました」。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/5021c479dddc484e9d964809f7bb4fc4.png" width="681" height="447" /></p>
<p style="text-align: center;">(注2)詳しくは、<a href="http://bit.ly/2A9E3sK" rel="nofollow">http://bit.ly/2A9E3sK</a> をご覧ください。</p>
<p><strong>適材適所</strong></p>
<p>「たくさんの人を見ていると、一人でも多く助けたいと思ってしまいますが、 似たような経験をしていない人が当事者を説得するのは時間がかかります。日本人がダブルリミテッドの子どもや外国人を支援するのも簡単ではありません。最近は、中間に立つ人(両方の文化や気持ちがわかる人)が増えてきているので、その子たちの活躍をサポートしてほしいです。みんな、自分の経験や体験を活かしたいと思っていますから」。</p>
<p><strong>多文化共生社会に向けて</strong></p>
<p>外国人には、もう少し日本人を理解しようとする気持ちを持ってほしいと語るレックスさん。「はじめは、日本人がお葬式のあとにみんなでワイワイお酒を飲むことが理解できませんでした。どうして人が亡くなったのに楽しそうにするのかと。しかし、理由を聞いてからその考えを理解できるようになりました。相手を理解しようとすれば、『なんで◯◯人は〜』と言われても気にならなくなります。むしろ自分のことを相手に説明したくなります。いつか趣味の話のように、気軽に自分のルーツを話せるようになると良いと思います」。</p>
<p><strong>理想の社会を実現するために</strong></p>
<p>「音楽活動をしたり、多文化共生の集まりに参加したりしていますが、共通するのはそこに“人間の輪”があることです。人と人のつながりがいちばん大事で、人とかかわり、コミュニケーションをとり、仲良くなる。そんな、人がかかわるムーブメントが起こせたらいいなと思います。多文化共生に関心がある人もない人も、いろんな人たちをつなげていきたいです。制度が変わっても革命が起きても、人間は変わりません。こうした地道なことの積み重ねでしか人は変わらないんです。僕は損得を考えずに、どんなことにも興味を持って、どんなに嫌な人でも一度は仲良くなってみようと思って暮らしています。外国人だからではなく、人間として仲良くしてほしいです。一度試してみてダメならやめればいいのだから。試さないで諦めるのは、人生を損していると思います。向き合って喧嘩をした分だけ、人は仲良くなれるのですから」。</p>
<p>レックスさんのこれからの暮らしを陰ながら応援しています。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/d6421b626f9a4806b3f1b2df1260811f.png" /></p>
<p style="text-align: center;">*Last ArlmAはすでに解散していますが、こちら( <a href="http://bit.ly/2AarJse" rel="nofollow">http://bit.ly/2AarJse</a> )で視聴できます。</p>
<p style="margin: 0px 0px 25px; color: #333333; font-family: 'Lucida Grande', 'Hiragino Kaku Gothic Pro', メイリオ, Meiryo, 'ヒラギノ角ゴ Pro W3', Helvetica, Arial, sans-serif; font-size: 16px;"><span style="color: #ff0000;">*この記事は、2013年12月発行『たぶんか便り』第10号の記事を元にしています。本文内の情報はすべて、発行当時のものです。</span> </p>
<p> </p>
<p> </p>2018-05-25T01:27:10+00:00【団体インタビュー 010】NPO法人多文化共生リソースセンター東海②
2018-05-25T01:29:04+00:00tabunka_tokaihttp://mrct.publishers.fm/editor/794/http://mrct.publishers.fm/article/16716/<p>たぶんか便り第10号は当団体、NPO法人多文化共生リソースセンター東海5周年を迎えるにあたり、代表理事の土井が団体の歩みや思いを語ったインタビュー記事と、設立から支えてくださっている役員からのメッセージを2回に分けてお届けします。</p>
<p><strong>〜役員メッセージ〜</strong></p>
<p><strong>副代表理事 後藤美樹</strong></p>
<p><strong><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/7a513206e7184569b4d55f2c71440b01.png" /></strong></p>
<p>当団体も設立から5年目を迎えました。長いようで、あっと言う間の5年間でした。東海地方における「多文化共生」実現の一助となりたいとの思いから、行政やボランティア団体との恊働による、様々なプロジェクトを実施してまいりました。特に愛知県においては、外国人コミュニティに関する事業をいくつか委託させて頂くことが出来ました。</p>
<p>外国人コミュニティは、多文化共生に必要不可欠な存在でありながら、財政不足など慢性的な経営に関する課題を抱えています。そうした団体の現状を、「多文化共生コミュニティ支援業務」などの実施を通じて、微力ながら、現場の声をお伝えすることができたと思います。5年前と比べ、ここ東海地方でも様々な事業が開始され、またボランティア団体も増えてきました。今後は、具体的な課題の解決策を提示し、どのような専門性をもって事業を展開するかが、当団体の課題だと思います。</p>
<p><strong>理事 関戸美恵子(一般社団法人SR連携プラットフォーム・代表理事) </strong></p>
<p style="text-align: center;"><img style="margin: 0px;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/7f6eb383340e498b8379afd95b8acfeb.png" /> </p>
<p style="text-align: left;">5年前、法人設立に少し関わった。土井さんからは「産みの親」等と煽てられる?こともあるが、実際の所は「産婆さん」の役回りだったのだと思う。産み出そうとし又産まれようとする「親子」がこの地域に確実に存在していたのだ。</p>
<p>在住外国人の割合の高さ、懸命に生きようとする外国人の方やそのコミュニティ、それを支えようとする様々な支援団体。「共生」に戸惑う地域のコミュニティも含めて、それらがさしずめ母胎とするならば、そうした現場を、情報も含む多様なリソースを繋ぎ合わせて、根底で支えようという志を潜在的に有していた若者たち。彼らこそが、産声を上げようと頑張る「新しい生命そのもの」であったのだ。その子がようやく5才になった。多文化、多様性が「豊かさ」となる社会への歩みは、その切実なニーズに比して遅々として見えるかもしれないが、焦ることはない。「リソースセンター」という名に込められた現場への尊敬を忘れず、飽くなき挑戦を!</p>
<p><strong>理事 田村太郎(一般財団法人ダイバーシティ研究所・代表理事) </strong></p>
<p style="text-align: center;"><img style="margin: 0px;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/3dffd4a8bb5a4801ac1ff80d7a4e69a6.png" /> </p>
<p style="text-align: left;">困難に直面している外国人のために何かをしたい、という気持ちを持つ人は、直接相談を受けたり日本語を教えたりする現場で活動することが多い。しかし、そうした人々を支える活動や、しくみを整えたり必要な道具をつくったりする活動もまた重要です。「中間支援」と呼ばれるこうした活動は、直接「ありがとう」といってもらう機会も少なく、寄付やボランティアを募るにも苦労しますが、「多文化共生リソースセンター東海」は多くの方々の支援をいただきながら、設立から5年を迎えることができたのはほんとうにうれしいことです。</p>
<p>リーマンショックや東日本大震災を経て、日本社会は大きく変化しましたが、欧米では石油ショックを経て「多文化主義」への理解が深まりました。ちがいを認め合いながらともに生きる社会づくりは、日本でもこれからようやく本格化すると私は考えます。スタッフのみなさんとともに、理事として私も微力を尽くしたいと思います。</p>
<p><strong>理事兼事務局長 河村槙子</strong></p>
<p style="text-align: center;"><img style="margin: 0px;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/845c4f2dbc4a4892bf508ea5f8d44e07.png" /></p>
<p>これまで委託事業を中心に様々な経験を積んできました。次のステップとして、これまでにできたつながりをもとに、中間支援組織の強みを生かした活動を強化していきたいと思います。</p>
<p>具体的には、政策提言や研修会を重ねていきたいと思います。例えば、外国籍住民の高齢化や外国にルーツのある児童の発達障がいなど、現場での課題は多様化してきています。当団体でその状況をまとめ、より良い方向に向かうよう、しかるべきところに働きかけをしたり、現場団体さんのニーズを調査したうえで研修会を企画したりしていきたいです。 また、子ども支援や福祉、防災など多文化共生分野以外で活動する団体さんとの連携も強めていきたいです。やりたいことはたくさんありますが、方向性としては中間支援という立場に特化し、 多文化共生の「仕組みづくり」、「環境づくり」、「意識づくり」をしていきたいです。</p>
<p><span style="font-family: 'Lucida Grande', 'Hiragino Kaku Gothic Pro', メイリオ, Meiryo, 'ヒラギノ角ゴ Pro W3', Helvetica, Arial, sans-serif; font-size: 16px; color: #ff0000;">*この記事は、2013年12月発行『たぶんか便り』第10号の記事を元にしています。本文内の情報はすべて、発行当時のものです。</span><span style="color: #333333; font-family: 'Lucida Grande', 'Hiragino Kaku Gothic Pro', メイリオ, Meiryo, 'ヒラギノ角ゴ Pro W3', Helvetica, Arial, sans-serif; font-size: 16px;"> </span></p>2018-05-25T01:29:04+00:00【団体インタビュー 010】NPO法人多文化共生リソースセンター東海①
2017-11-18T12:49:34+00:00tabunka_tokaihttp://mrct.publishers.fm/editor/794/http://mrct.publishers.fm/article/16651/<p>たぶんか便り第10号は当団体、NPO法人多文化共生リソースセンター東海5周年を迎えるにあたり、代表理事の土井が団体の歩みや思いを語ったインタビュー記事と、設立から支えてくださっている役員からのメッセージを2回に分けてお届けします。(聞き手:ボランティア、佐宗希恵) </p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/7ffe44dfc43f4b0996c992a40a7865e6.png" width="427" height="469" /></p>
<p><strong>多文化共生に興味を持ったきっかけ、団体を立ち上げるまでの経緯を教えてください。</strong></p>
<p>実は、多文化共生の活動をしようと思ったことは今まで一度もないんです。僕は「学習者」として外国の文化や習慣・考え方を知ることに興味があったので、いつか海外で日本語教師として働きながら各国のことを学ぼうと思っていました。大学卒業後、ボランティアで日本語教室に関わるようになり、そのうちの1つに愛知県豊田市のNPO法人保見ヶ丘国際交流センターが主催する日本語教室がありました。その教室の目的は日本語の学習の場の提供だけでなく、集まった人が接点を持ち、相互理解を深めていくことでした。そういう教室に初めて出会い、すごく面白くて、自分はこういうことがしたいのだと気づきました。</p>
<p>そして2005年3月、そのNPOで防災の研修会が開かれ、講師として田村太郎さん(NPO法人多文化共生センター大阪・代表理事)がいらっしゃいました。阪神淡路大震災が起きた当時、外国人が困っている状況を知って支援活動を行っていたということを伺った時に「君がしていることは多文化共生というものの中の1つだよ」と言われたんです。自分の中で、視点が日本語教育から多文化共生に広がったのはそれからです。</p>
<p><strong>団体立ち上げに向けた動き</strong></p>
<p>その頃、これからの外国人支援を考え、若い世代で中間支援組織をつくるというプロジェクトが動き出していました。2007年12月と2008年1月に行われた懇談会に僕も参加し、翌月から設立準備会がはじまりました。どのような団体をつくるか・・・、個人的には、誰かが仕事として本当にやりたいと思った時に一緒に仕事としてやれるようなプロの団体にしたいと思いました。その当時は僕もボランティアでしたが、ボランティアでしかされないことは継続が難しいと思っていました。また、中間支援組織として、現場の人が円滑に活動できるようなサポートや、この地域で求められていることは何か、全員で意見を出し合いました。僕も最初は背伸びしながら、その背伸び部分が見えないように勉強していましたね。</p>
<p>2008年10月、正式に団体として認められる際、僕が代表になりました。ただ、僕は代表として団体を立ち上げたわけではないので、自分が関心をもってここにいたら代表という立場が回ってきたという感覚です。<span style="color: #333333;">同世代で同じような関心を持っていて、かつ、求められていくものをつくるからこそ参加して、現在も続いているのだと思いますね。</span></p>
<p><strong>活動で大切にしていることは何ですか?</strong></p>
<p>代表になってから、大切にすることが変わってきました。代表でなければ、みんなが楽しく関われるということをいちばんに考えていたかもしれません。たくさんの人が関わっているため、その人たちが楽しく気持ちよく活動できることはとても大事だと思います。むしろ、それがないと団体は成り立たないので。でも代表としては、それを最優先するわけにいきません。なぜなら、極端な言い方をすると、その人の自己満足につながるだけで終わってしまうと意味がないと思うからです。取り組む側の想いとしてはすごく大事だと思っています。でもリソースセンターは、困っている人たちの課題を改善し、こうなればいいなという希望が少しも叶えられることに存在意義があると思っています。</p>
<p>そのため、今いちばん大切しているのは、リソースセンターを必要としている人の気持ちや願いですね。東海地域は広て課題が多くありますが、団体のメンバーは少ないため、すぐに課題がなくなるとは思っていません。でも、以前はほとんどいなかったボランティアが増えたことも、逆に言えば、団体がなければそういう機会さえなかったということですよね。リソースセンターがあったから関心を持ち、多文化共生を考える人が増えていることは感じているので、今行っていることには多少なりとも意味があると思っています。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/6bd3b3f24014461c84f564420ee30baa.png" /></p>
<p style="text-align: center;">毎年開催している外国人コミュニティの紹介イベント</p>
<p><strong>設立から5年、どのような変化を感じますか?</strong></p>
<p>特に感じる変化は2つです。1つは、この地域の人材や情報、お金、物、場所など、「地域の社会資源」であるリソースを集めて、必要とされた時に紹介できる団体になったことです。リソースセンターには毎日、いろんな相談がきます。5年間続けてきて、それに対して答えられることが増えたのはすごく意味があると思いますね。だから、相談に答えていくことにはすごく時間をかけます。</p>
<p>もう1つは、多文化共生に関する仕事やそれに関わる団体で活動することを志望する人が増えていることです。ここ2年間ほどで立ち上がった団体をみると、特に東海地域だからこその変化を感じます。幼いころ外国から日本にきて、サポートを受けながら頑張ってきた子どもたちが大学生・社会人になり「自分の経験を生かして何か役に立ちたい」と起ちあげた団体がいくつか。それは代々日本生まれ・育ちの人が外国人をサポートするのとは全く違うと思います。団体としても個人としても、いかに余計なお節介やサポートをせず、どの程度の距離を置いて関わっていくかを考えていますね。</p>
<p>5年で何かを成し遂げたわけではありませんが、次の大きな課題が出てきたことは感じています。現在の中高生が大学生になるこれからの5年間は、さらに課題が生まれると思います。それはすごく大事で、健全なことです。そういう人たちが経験を生かせる仕事をしたいと思った時に叶えられる社会をつくっていくことが僕たちの役目だと思います。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/c96dc35b596e48c4bc7618af6342a4f6.png" /></p>
<p style="text-align: center;">研修会等への講師派遣件数も年々増加</p>
<p><strong>5年間共に活動されてきた方々へ一言お願いします。</strong></p>
<p>リソースセンターには基本的に、代表、副代表、事務局長の3人しかいません。でも3人だけでやれたことは何もなくて、何かある度に誰かに協力してもらっての5年間です。本当に感謝の一言です。協力してくださった方々も、その当時はリソースセンターのメンバーの一員でしたし、事業が終わり別の仕事をしながら協力してくださる方、つながりを持ち続けてくださる方も本当に多いので、関係を続けていきたいと思っています。そして、何かあればこちらからもお手伝いをして、一緒に働かせてもらえればありがたいです。</p>
<p>現在のメンバー3人は、多文化共生へのかかわり方や立場、バックグラウンドが全く異なります。そのため、当然なのですが、目指していることや活動での優先順位が1つにはなりません。外国人だからという理由で差別偏見を受けることのない、逆に日本人にも彼らとかかわる機会が当たり前にある社会をつくりたいという気持ちはみんなもっています。大枠は共通しているので、今まで山あり谷ありあっても崩れずにきたのだと思います。でも、プロジェクトを進めるにはものすごく細かい部分まで考えていかなければならないので、共通認識や価値観の共有はしていきたいです。特に、これだけボランティアや事務局スタッフがいたら組織の運営を考えていく必要があるので。</p>
<p>おそらく、これからは今までと違う点でぶつかりあうことが増えると思います。行き過ぎないようにお互い配慮しながら、仲良くやっていきましょう!</p>
<p style="text-align: center;"><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/112ba66405b7444d939b032728648083.png" />最愛のスタッフと5周年を祝って </p>
<p style="text-align: left;"><span style="font-family: 'Lucida Grande', 'Hiragino Kaku Gothic Pro', メイリオ, Meiryo, 'ヒラギノ角ゴ Pro W3', Helvetica, Arial, sans-serif; font-size: 16px; color: #ff0000;">*この記事は、2013年12月発行『たぶんか便り』第10号の記事を元にしています。本文内の情報はすべて、発行当時のものです。</span><span style="color: #333333; font-family: 'Lucida Grande', 'Hiragino Kaku Gothic Pro', メイリオ, Meiryo, 'ヒラギノ角ゴ Pro W3', Helvetica, Arial, sans-serif; font-size: 16px;"> </span></p>2017-11-18T12:49:34+00:00【個人インタビュー 009】ミゲルさん
2019-12-21T12:01:15+00:00tabunka_tokaihttp://mrct.publishers.fm/editor/794/http://mrct.publishers.fm/article/16450/<p><strong>人・地域とのつながりを大切に〜日本で起業する〜</strong></p>
<p>ペルー出身のミゲルさんは、大須商店街のシンボルである“招き猫像”から50mほど歩いたところにある南米雑貨店「PUKIO」を経営しています。また、自身で企画し、商店街で開催している「ラテン・アメリカフェスティバル」の実行委員長でもあります。そんなミゲルさんに、日本で起業するまでの道のりや将来の展望、そして「ラテン・アメリカフェスティバル」についてお話を伺いました。</p>
<p><br /><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/c8d0683b4f32485a9e6e30490197433b.jpg" /></p>
<p><strong>子どもの頃からの夢 </strong></p>
<p>ミゲルさんが来日したのは、10歳の時に雑誌で日本人や着物を見て、「いつか必ず日本に行こう!」と思ったからだそうです。子どもの時からの夢を叶えるために、いろいろな仕事をしてお金を貯め、ついに2001年に初来日を果たしました。降り立った場所は東京。そこから、なぜ名古屋に居を構えるようになったのかと聞くと、「それは本当に偶然だったんだよ。」と答えてくれました。来日当初は日本語がまったく話せず、日本の都市は東京と京都しか知らなかったミゲルさんは、せっかく日本に来たのだから新幹線に乗ってみたいと思いたって、東京駅に向かいました。しかし、どこまで行ったらいいのかわからず、切符売り場でポケットから1万円札を出したところ、返ってきたのが名古屋までの切符だったそうです。そして名古屋駅に降り立ち、あちこち観光して回りました。その時、知り合った人の紹介がきっかけで、東海地域で働くことになったそうです。</p>
<p><strong>辛かった日本での仕事 </strong></p>
<p>来日前もいろいろな仕事を経験してきたミゲルさんですが、来日後に働いた弁当屋の仕事ほど大変な職場はなかったと言います。冷蔵庫のように冷たい倉庫の中で野菜を洗ったり、重たいものを運んだりと、そこは決して快適な環境ではありませんでした。それでも、日本語が話せない自分ができる仕事は限られているから、がんばって働こうと自分を奮い立たせました。当時の職場環境を振り返って、「人間はどんなに大変な労働環境でも、 がんばればできると思う。しかし、それに差別やいじめが加わった時ほど辛いものはない。外国人は人として扱われなかったよ」とミゲルさんは言います。その職場にはミゲルさんの他にも外 国人の従業員がいましたが、日本人従業員からひどい扱いを受けても、日本語ができないために反発することもできず、ただただ耐える日々を送っていたそうです。</p>
<p>でもある日、状況が変わりました。ミゲルさんが初めて日本人に対して日本語で怒ったのです。日本語がわからないと思っていた日本人は、その日を境に何も言わなくなりました。ミゲルさんはその後もまじめに仕事に取り組んで、すべての作業ができるようになり、後輩を指導する側にもなりました。また、仕事をしながら日本語学校にも通いました。週に2日、授業に間に合う時間に仕事を切り上げて、日本語の勉強に励む日々。時間もお金も少しも無駄にしたくないと思って、勉強に打ち込みました。次第に日本語が話せるようになったことで自信がつき、次の一歩を踏み出そうと弁当屋の仕事を辞めました。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/3b269def2e9b450bbeb3a6dfd74b3e3d.jpg" /></p>
<p><strong>そして、起業 </strong></p>
<p>その後ミゲルさんは、母国での経験を生かして自動車工場でも働きましたが、自分がやりたいことは何かと考え、来日前に抱いていた「日本で自分の会社を持つ」という夢を叶えたいと思うようになりました。当初は自動車整備の会社を作ろうとしましたが、日本語で書かれたマニュアルを理解するのはとても難しく、どうすればよいか悩みました。そんな時、自動車会社で働いていた時に知り合った日本人に、一緒に南米雑貨の店をやらないかと誘われました。出店場所を見つけるために不動産屋を何軒も回りましたが、外国人に貸してくれる物件はなかなか見つからなかったそうです。ある日、良さそうな物件を見つけて不動産屋に行くと、担当者が大家に連絡を取ってくれました。そこで、思いがけない言葉が電話の先から聞こえてきました。</p>
<blockquote>
<p><span style="color: #3366ff;">不動産屋:外国の方が部屋を借りたいと言っているんですが。</span></p>
<p><span style="color: #3366ff;">大 家:黒人ですか、白人ですか?</span></p>
<p><span style="color: #3366ff;">不動産屋:黒人です。</span></p>
<p><span style="color: #3366ff;">大 家:黒人はだめです。</span> </p>
</blockquote>
<p><strong>差別に負けない</strong></p>
<p>ミゲルさんは、そんなことがあっても諦めず、お店を持ちたいという夢に向かって来る日も来る日も物件を探しました。そして、半年ほどしてやっと伏見通り(名古屋市中区)の近くに場所を借りることができ、ついにお店を開くことになりました。扱う雑貨はすべて手作りのもので、自身でも南米に買い付けに行くそうです。コツコツまじめに働くことでお店の売り上げも伸び、インターネットショップもオープンしました。売り上げが伸びると、いろいろと複雑な手続きが増えてきたので、アドバイスを受けるために商工会に入りました。店づくりも工夫をし、雑貨を扱うだけではなく、 BARやLIVE、音楽教室やダンス教室など、次々と事業展開していきました。自分が考えたことでお客さんが喜んでくれることが嬉しくて、仕事にますますのめり込んでいったと言います。お店は、1年に1回はテレビの取材が来るほど注目されるようになりました。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/58b42f2820d04f35b28decd8ae993eb3.jpg" /></p>
<p>開店後は順風満帆かのように思われますが、ミゲルさんは「正直、途中で店をやめようと思ったこともあった」と言います。全国各地で開かれるイベントに出店した際、南米から商品が届かないというトラブルに何度も見舞われたそうです。イベント終了後に商品が大量に届き、在庫を抱えて途方に暮れたことも一度や二度ではありません。しかし、「そんなトラブルも自分を強くしてくれた」と前向きに捉えるミゲルさん。店を辞めようかと悩んだ時、いつも友人たちが励ましてくれたそうです。</p>
<p>ミゲルさんには、新しい目標がありました。それは、商店街の中に店を持つこと。家賃の支払い期限などを必ず守り、イベントも継続してやってきたことで不動産屋から信頼を得て、2年前に商店街の中の空き店舗に移らないかと誘われました。そしてついに、念願だった商店街の中に店をオープンさせることができました。お店をやっていて特に楽しいことは何かと聞くと、「お店に来てくれる日本人と、日本や南米の話ができるのが楽しい。直接人と関われて毎日がおもしろい」と話してくれました。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/bd828a47268b4ee99c7d300fd839bf3e.jpg" /></p>
<p><strong>ラテン・アメリカフェスティバル</strong></p>
<p>大須商店街(名古屋市中区)で南米雑貨店「PUKIO(プキオ)」をオープンしてから、ミゲルさんは「日本人の生活は仕事ばかりで、あまり楽しいことがないのではないか。日本人と一緒に楽しめることができないか」と感じることがありました。そして、いつか商店街で大きなイベントを開きたいと思うようになりました。来日してから出会った人々と少しずつ企画を練り、2010年にナディアパーク(名古屋市中区)で「第1回ラテン・アメリカフェスティバル」を開催しました。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/4e24fe4db95f4aa396e8fec5a63a5d96.jpg" /></p>
<p>開催前は「人が集まるのか、うまくやれるのかと心配で眠れなかった」と言います。しかしそんな心配をよそに、イベントは1,500人もの観客を集め大成功に終わりました。2012年からは会場を念願だった大須商店街に移して行っています。最初から大須商店街で開催しなかったのは、「いきなり大きなことをやると驚かれるから、まずはよそで実績をつくって、大丈夫だということを示したかった」のだとか。名古屋市、JICA中部、名古屋国際センターなどから後援をもらい、商店街の人にも協力してもらって、みんなでイベントをつくりあげることを意識してきました。当初はスポンサー集めに苦労しましたが、回数を重ねるたびに信頼が増し、今ではスポンサーの常連になった企業もあります。現在、実行委員長のミゲルさんの他は、実行委員全員が“南米好きの日本人”だそうです。毎年同じことをやっていたらお客さんが飽きてしまうので、どうしたら楽しんでもらえかと実行委員みんなで考えているそうです。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/24079ad660414347af059b477738bf8d.jpeg" /> </p>
<p><strong>これから </strong></p>
<p>ミゲルさんは「これからも日本に住み続けようと思っている」と言います。頭の中には、まだまだやりたいことが溢れているのだと。当面の目標は、大須商店街のお店を大きくすること。1階で雑貨を売り、2階はBARにして、お客さんがもっと楽しめる空間を作りたいと考えています。そして、これからもイベントを通じてたくさんの人を笑顔にしていきたいと、ミゲルさんの夢と行動力は広がるばかりです。</p>
<p> </p>
<p><strong>大須 南米の輸入雑貨 PUKIO <a href="https://pukio.jp/">https://pukio.jp/</a></strong></p>
<p><strong>名古屋ラテン・アメリカフェスティバル facebookページ </strong><a href="https://www.facebook.com/nagoyalatino/" rel="nofollow">https://www.facebook.com/nagoyalatino/</a></p>
<p><span style="color: #ff0000; font-family: 'Lucida Grande', 'Hiragino Kaku Gothic Pro', メイリオ, Meiryo, 'ヒラギノ角ゴ Pro W3', Helvetica, Arial, sans-serif; font-size: 16px;">*この記事は、2013年10月発行『たぶんか便り』第9号の記事を元にしています。本文内の情報はすべて、発行当時のものです</span></p>
<p> </p>
<p> </p>
<p> </p>
<p> </p>2019-12-21T12:01:15+00:00【団体インタビュー 009】華豊の友
2018-05-25T01:33:09+00:00tabunka_tokaihttp://mrct.publishers.fm/editor/794/http://mrct.publishers.fm/article/16569/<p><strong>いまだからこそ、私たちの出番!</strong></p>
<p>新年快乐!(=あけましておめでとうございます!)</p>
<p>華やかな音楽に色とりどりの民族衣装を身にまとった女性たち。中国の旧正月「春節」の様子を観たことがある方も多いのではないでしょうか。豊田市内を中心に活動する中国人コミュニティ「華豊の友(かほうのとも)」のダンスチームも、春節などのイベントで舞台を飾るグループのひとつで、こうしたイベントなどを通して日中文化交流の促進を図っています。</p>
<p>華豊の友は、2013年4月から中国・内モンゴル自治区での植林活動を始めました。日中関係が複雑だと言われている昨今、日本からの植林ツアーの実施には懸念の声も多かったと思います。そんな中、なぜ植林活動を始めたのでしょうか。そして幅広い活動を9年に渡り継続させることができているのはなぜなのでしょうか。同会会長の任利民(ニン・リミン)さんにその思いや活動継続の秘訣を伺いました。</p>
<p> <img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/b4a23d9861b143dea5f96b84fd520d9b.png" width="516" height="558" /></p>
<p> </p>
<p><strong>この地域で暮らす市民の一員として</strong></p>
<p>任さんに、華豊の友の設立経緯を尋ねました。「中国人が豊田市にやって来て暮らし始めたころ、日本語もわからない、友達もいないという状況で、日常生活の一つ一つが困難なうえ、非常に孤独でした。そんな時、財団法人豊田市国際交流協会(現・公益財団法人。以下「TIA」)が主催する日本語教室や交流会に呼んでもらい、中国人同士の横のつながりや、日本人とのつながりができました。日本での生活に馴染み、ようやく自立することができました。今度は自分たちも豊田市で暮らす市民の一員として、何かできることはないか、助けてもらったこの地域の人たちに恩返しがしたい、そんな思いから中国人で集まってグループをつくりました」。そして任さんたちは、ボランティア事業を行う財団法人あすて(現・公益財団法人。以下「あすて」)の職員でもある中国人メンバーを通じ、同法人の協力を得て2004年に華豊の友を設立に至りました。</p>
<p><strong>できることから</strong></p>
<p>任さんたちは、「どのような活動を通して地域に恩返しをしようか」と考え、まずは自分たちでできること、みんなで楽しめることからと、餃子作りなどの料理体験を始めました。そして、歌や踊りなどを通して文化紹介をするため、コンサートを開きました。TIAで、各国の文化を紹介する「ナショナルデー」 というイベントが開催されています。華豊の友も「中国デー」に、 毎年テーマを変えて出演しています。発表の場が増えるにつれ、 華豊の友のダンスチーム「華豊歌舞団」の評判が広まり、今では豊田市内だけでなく各地のイベントから声がかかるようになったそうです。</p>
<p style="text-align: center;"><img style="margin: 0px;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/adb8a0f26cac499bbb0e54d1c1710d39.jpg" /></p>
<p style="text-align: center;">(設立当初から続けている餃子作り)</p>
<p style="text-align: center;"><img style="margin: 0px;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/36a717f60a244a95a3ca1623c54ae80c.jpg" /></p>
<p style="text-align: center;">(TIA中国デーでの記念撮影)</p>
<p>また、中国につながる子どもたちが母国に誇りを持ち、将来日中の架け橋となれるようにとの願いから、子ども向けの中国語教室も開催しています。その他、日本人向けの中国語教室の開催やスポーツ交流など、活動の幅が広がっているようです。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/ba61d89b36da4e1199cba25baeab25f0.jpg" /></p>
<p style="text-align: center;">(子ども向け中国語教室の様子)</p>
<p><strong>活動継続の秘訣</strong></p>
<p>これだけ幅広い活動を展開し、長年継続していくにはさぞご苦労があったと思います。「任意の活動にメンバーが継続的に関わっていくことの難しさというのは、市民活動をした経験のある方なら誰もが直面する問題だと思います。しかし、華豊の友の設立メンバーのほとんどは今でも活動を継続していて、メンバー数も設立当初の10人から現在では50名にまで増えています」と誇らしげに語ってくれた任さんには、ある印象的な出来事があったそうです。</p>
<p>「2007年に、あすての助成を受けて国際コンサートを主催しました。出演者数100名以上、来場者数220名以上という大規模なイベントです。音響や照明など、何をするにしてもプロに頼むと高額な費用がかかるので自分たちでやってみよう!と、メンバーそれぞれが役割を担ってやりました。裏方から司会まですべて素人のメンバーによる手作りのイベントでしたが、当日来場された駐日中国総領事から『任さんは中国でイベントプロデューサーをされていたんですか?』と聞かれるほど完成度の高いものになりました。それ以来、華豊の友のイベントは、すべてメンバーで運営しています。みんな役割を持てば、責任を持ってやってくれる。やればできる!という手応えが自信につながりました。メンバーみんなが役割を担うことで、やりがいを感じられる。メンバー同士の結束が固まり、メンバー自身が楽しいと感じる。そのサイクルが、華豊の友の活動継続の秘訣ですかね」と、団体にとってのターニングポイントを教えてくれました。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/1821766bea9744adb581ae4892f792d8.jpg" /></p>
<p style="text-align: center;">(2008年に中国で発生した四川大地震の復興支援コンサート)</p>
<p><strong>夢が現実になった植林活動</strong></p>
<p>2013年から、華豊の友はまた一つ新しい活動を展開しています。それは、中国・内モンゴル自治区での植林活動です。「毎年、春になると日本にも飛んでくる黄砂。母国である中国が日本に迷惑を掛けているので、中国人として何かしなければと思って」と任さん。とはいえ、植林活動は莫大な費用と労力を要するものです。「今すぐには難しいけれど、数年後には実現できればと思っていたんですよね」と夢見ていたある日、あすてから華豊の友の今後の活動において、何か大きな目標を立ててはどうかと提案を受けたそうです。そこで任さんは、かねてからの思いだった植林活動の構想を話したところ、あすての理事長から「そんないいアイディア、どうしてすぐやらないの?すぐに現地調査に行きましょう」と背中を強く押されたのだとか。現実的ではないかもと思っていた植林活動が、急速に動き出しました。「中国には『騎虎難下』っていうことわざがあって、乗った虎から降りられないっていう意味なんだけど、日本でいう『乗りかかった船』と同じような意味です。正にそんな感じで、降りられなくなっちゃった」と笑いながら話す任さん。 その後、企業からの協賛も得て、4月25日〜29日の5日間、約30名の日本人と約 20名の中国人が力をあわせ、内モンゴル自治区での植林活動を行いました。任さんたちの思いは、ここに現実のものとなったのです。</p>
<p><strong>今だからこそ、私たちにできることがある</strong></p>
<p>植林活動を実現するにあたって、すべてが順風満帆だったわけではありません。日中関係が悪化しているという報道もある今、中国で活動を行うことに対する懸念の声が圧倒的に多かったそうです。なぜ今やらなければいけないのかという声に対し、任さんは「こういう時だからこそ、私たち市民にできることがあるのではないか」とその意義を説きました。「政府同士の関係は私たち市民にはどうすることもできないけれど、私たち両国の市民同士の理解を深めることはできる。そうした草の根の活動で、日中友好の基盤をつくっていきたい。」それが任会長の思いでした。ただし、ツアーの実施には安全の確保が求められるため、事前に綿密な調査を行いました。「中国側の状況を調べると、民間では日本の報道で見聞きするほどの騒ぎにはなっていませんでした。中国の報道も同じで、テレビで日本の過激な反中活動の様子を観た友人から、『日中戦争がはじまるぞ!早く帰って来い!』なんて言われる(笑)。報道が騒ぎを大きくしているだけなんですよね」。こうした報道によるイメージが、人々にお互いの国への誤解を与えてしまうことは、だれにとっても非常に残念なことです。だからこそ、政治や報道にとらわれず、市民同士が交わることによって、その誤解が解ければと任さんは活動の意義を強く感じました。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/bcdc3f5ca9154e788f5cef5fb0e3f82a.jpg" /></p>
<p style="text-align: center;">(各地のイベントにひっぱりだこの「華豊歌舞団」は練習熱心)</p>
<p>植林活動の目的は、砂漠緑化にとどまりません。「むしろ、広い砂漠という大自然に対して自分たちができることは、ほんの小さなことでしかない。けれど、日本からのボランティアが中国の砂漠に木を植えに来たというその事実が、中国人の日本人に対する印象にもたらす影響は大きいと思います。日ごろ、華豊の友は日本で地域活動を行うことにより、日本人の中国人に対する印象をプラスのものにしています。植林活動によって、お互いのイメージアップにつなげたいんです」と任さんは言います。</p>
<p>そんな華豊の友の今後の目標についてお聞きしました。「華豊の友という組織は、あくまでもひとつの形。形は何であれ、私たち日本で暮らす中国人が、日中の架け橋になっていけたらと思います。日本で暮らしているからといって、まるっきり日本人になりきるのではなく、中国人として母国の文化を大切にしながら、それを日本社会で活かしていく。それこそが、私たち日本で暮らす中国人の生き甲斐になると思います。それが、私たちの子ども、孫の世代にもつながっていけばいいなと思っています」。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/fe73c32200c54eec846de829c71006e5.jpg" /></p>
<p style="text-align: center;">(名古屋春節祭での舞踊披露)</p>
<p><strong>植林活動のその後</strong></p>
<p>インタビューから数日後、任さんからこんな連絡をいただきました。</p>
<blockquote>
<p>植林活動は日本人と中国人が協力し合い、終始笑いの絶えない非常に楽しいものとなりました。ただ、せっかく植えた苗も、牛や馬の餌になってしまう危険性があります。そこで、「あすての森中国事務局」1名を配置し、遊牧民を雇用して植林のその後をフォローする体制をつくりました。来年以降も一年に一度植林ツアーを敢行するので、ぜひ、あすてのホームページをチェックしてください。</p>
</blockquote>
<p>みなさん、ぜひこれからも、華豊の友の活動にご注目ください。</p>
<p><span style="color: #ff0000;">*この記事は、2013年10月発行『たぶんか便り』第9号の記事を元にしています。本文内の情報はすべて、発行当時のものです。</span> </p>
<p>華豊の友(かほうのとも) 〒473-0911 愛知県豊田市本町本竜 43 公益財団法人あすて内 TEL:0565-52-0362 FAX:0565-52-0363 URL:<a href="http://www.aste-toyota.jp/kaho/kaho_j.html" rel="nofollow">http://www.aste-toyota.jp/kaho/kaho_j.html</a></p>
<p> </p>
<p> </p>2018-05-25T01:33:09+00:00【個人インタビュー 008】張雅婷さん
2018-05-25T01:34:24+00:00tabunka_tokaihttp://mrct.publishers.fm/editor/794/http://mrct.publishers.fm/article/16400/<p>張雅婷(チョウ・ヤーティン)さんは台湾から来た留学生。6年前に名古屋に来て、現在は名古屋大学大学院で日本文学を学んでいます。大学院では主に、外国人日本語作家の<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%93%E8%8B%B1%E9%9B%84" rel="nofollow"><u>リービ英雄</u></a>について研究しているそうです。学業以外でも、通訳・翻訳ボランティアに参加したり、当団体のニュースレター『たぶんか便り』の制作に創刊号から関わるなど、積極的に活動しています。そんなヤーティンさんに、これまでの6年間をどのように過ごしてきたのか、将来にどのような展望を持っているのか、お話を伺いました。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/cefeeab222934ad08994aff51b77f721.jpg" /> </p>
<p><strong>日本語との出会い</strong></p>
<p><strong>― </strong><strong>なぜ日本語を学ぶことになったのですか?</strong></p>
<p>私は台湾の大学で日本語学科に入り、それから10年以上日本語を学んでいます。日本に留学しようと思って日本語を選んだわけではなかったのですが、運よく留学の機会に恵まれました。1回目の交換留学では、大阪で1年間過ごしました。その時には、2回目の留学をすることになるとは思っていませんでしたが、大学院への進学が決まり、名古屋に来ることになりました。 </p>
<p><strong>― </strong><strong>日本語で苦労したことはありますか?</strong></p>
<p>初めて日本に来たときのことを今でもはっきり覚えています。一緒に来るはずだった友達が飛行機に乗り遅れたため、私が先に関西空港に到着しました。学校から迎えに来てくださった方に、友達が遅れてくることを伝えようと日本語で話したのですが、まったく理解してもらえず通訳の方を呼ばれてしまったことが悲しかったです。今では自分の研究とも関係していますが、読んでいる本も半分以上が日本語の本で、日本人の友達もできました。</p>
<p>日本語を学び始めてからの10年間は、あっという間でした。私は日本語で書くことが好きです。特に好きなのは、ひらがなとカタカナと漢字を組み合わせて書くことの美しさです。研究しているリービ英雄の影響を受けているのかもしれません。他の国にはない日本の独特な表現や文化を感じます。また、日本語の表現の繊細さが好きです。例えば、「はっきり」、「明確」、「明らか」といった同じ意味を持つ言葉の多さや、雨の降る音の「ざあざあ」や「しとしと」などの擬音語はとても魅力的です。日本文化を表す言葉遣いにも魅力を感じます。例えば、「ご迷惑をおかけします」という言葉や、「そうですね」等の相槌からは、日本人の丁寧さや思いやりが感じられます。一方で、「遠慮」を表す言葉に困惑することもありますが…。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/672b54a409f7495db094d8d0bd798d4b.jpg" /></p>
<p>日本語を学んでいて最も苦労したことは、アクセントと小さい「つ」の発音です。アクセントは、台湾の言葉を話すときのような“上がり下がりする話し方”を直すのに苦労しました。小さい「つ」の発音は、初級日本語の発音の授業で「サンドイッチ」という言葉を何度も繰り返し練習しました。 </p>
<p><strong>台湾から見た日本</strong></p>
<p><strong>― </strong><strong>日本のどんなところが好きですか?</strong></p>
<p>日本人は古いものを、お金や時間、労力を費やしてでも保存しようとします。そこが好きです。また、些細なことなんですが、いいなと感じたことが最近ありました。バスに車いすの方が乗って来られた時に、運転手さんが一度降りてその車いすの方の乗車を手伝っていたのに感銘を受けました。台湾の私の町では、車いすの方は補助をしてくれるヘルパーさんがいないとバスに乗れません。</p>
<p><img style="margin: 0px;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/c5b9dfe8933d40f18b3f9eb010d26f92.jpg" /> </p>
<p><strong>― </strong><strong>台湾と日本ではどのようなところが違うと思いますか?</strong></p>
<p>小さなことでは、日本人は麺類を食べる時、すすって音を出して食べます。おいしく食べるために音を出すということが、いまだに理解できません(苦笑)。</p>
<p>大きな違いでは、日本人はきちんと一つ一ひとつのプロセスをとっているという点が台湾と異なります。日本人は、これをクリアしたら次はこれというように着実に進めます。そしてもう一つ、日本人は曖昧ですね。会議などでよく「そうですね、、、まあでも、、、そうですね、、、」という会話を耳にします。この言葉の後ろの「、、、」が何を意味しているのか、今でも理解できない時があります。はっきり言わないのは優しさだと捉えることもできますが、会議の場では時間が長くなります。慣れていないからかもしれないですが、日本人の空気を読むところが、私は辛く感じます。しかし逆に、中国人など他の国の友達と話している時は、表現が直接的すぎると感じることもあります。台湾はその中間という感じです。また、私は日本人の「遠慮」という文化も理解できません。自分の意見があれば直接言い、相手の意見も聞いて、お互いに率直に言い合うことができればもっと良いのになと思います。</p>
<p style="text-align: center;"><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/29d7f2aa3b244d0a90be9925dca5d183.jpg" />(第4号に登場した当団体の外国人スタッフたちと) </p>
<p><strong>日本での経験を生かして</strong></p>
<p><strong>― </strong><strong>将来は日本と台湾どちらで暮らしたいですか?</strong></p>
<p>私にとって家族のいない日本は、長く暮らしていくには厳しい場所です。私は心の強い人間ではないので、将来的には台湾に帰りたいと思っています。そして台湾で、日本と台湾の友好関係を発展させる活動に携わっていきたいです。 </p>
<p><strong>― </strong><strong>台湾で、日本語を使った活動をしていきたいということですか?</strong></p>
<p>はい。これからも日本語から離れたくないと思います。例えば、私が日本と台湾それぞれの良いところを日本語で書いて、情報を発信するなど、日本や台湾のことをもっと多くの人に理解してもらいたいという気持ちがあります。</p>
<p>台湾だけでは狭いです。私は日本語を通して「世界」を見ることができました。そういう日本語で見た世界を、翻訳を通して今度は台湾の人に伝えたいです。例えば、南米やアフリカに対して多くの日本人が支援しています。そういうことを台湾の人にも伝えたいです。「日本語から日本を見る」ではなくて、「日本語から世界をみる」。これが、日本語を勉強していて良かったなと思うところです。私はほとんど日本語で世界を見ています。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/8c7f878e9d404688bff2079234cdb7c1.jpg" /> </p>
<p><strong>多文化共生社会の実現に向けて</strong></p>
<p><strong>― </strong><strong>多文化共生社会を実現するためには何が必要だと思いますか?</strong></p>
<p>やはり、一人ひとりの力です。例えば日本政府が「はい、今日から外国人を助けましょう」と言うよりも、一人ひとりが自分のできることをすることが大切だと思います。私は日本語と母国語である中国語が話せます。現在、それを活かせる通訳ボランティアをしています。少しずつ個々のできることが積み重なって、多文化共生社会へと繋がっていくのだと思います。小さなことの積み重ねで、お互いの文化について納得しあうことができるのだと思います。 </p>
<p><strong>- </strong><strong>ボランティアにはもともと興味がありましたか?</strong></p>
<p>台湾にいた時、台湾語や中国語が話せないにもかかわらず、東南アジアから多くの移民が労働力として来ていました。高校生の時はそのような人たちに対して偏見を持っていました。しかしその後、留学などを経験し、自分がマイノリティになったからこそ、マイノリティの辛さが理解できるようになり、その人たちに何かしてあげたいと思うようになりました。ところが、彼らの言葉がわからなかったため、当時は何もしてあげられませんでした。そういった経験から、受け入れ側として台湾が、どのように多文化共生社会を実現していくのかを研究したいと思いました。日本に来てからボランティアを経験し、日本語を活かして中国人を助けたり、自分が外国人として見た在日外国人の状況をこのニュースレター等に執筆したりすることで、少しずつ自分のできることがわかってきました。通訳ボランティアでは、弁護士の通訳として今までに3人の中国人女性を助けることができました。嬉しかったです。</p>
<p style="text-align: center;"><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/4267cc5b357f4ab89f1c01c1b20e1a57.jpg" />(ニュースレター取材中のヤーティンさん) </p>
<p><strong>― </strong><strong>最も印象に残っているボランティアは何ですか?</strong></p>
<p>私は、日本語が話せない等の理由で困っている外国人を助ける活動をしている組織でボランティアをしています。そこで1年半以上、中国人女性の通訳をしてきました。その女性と初めて会った時に、仕事の最中に事故に遭ってしまったけど会社側に適切な対応をしてもらえなかった、ということを聞きました。そのような事情を知ってしまったら、途中で通訳をやめることはできません。一つの訴訟は、一度だけで終わるものではありません。その後も、女性や弁護士の通訳を続け、近々やっと良い結果がもらえそうなので、自分自身頑張ってきたなあと嬉しく思っています。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/c68a8bfa9b9d42b7839a04be403d4bbe.jpg" /> </p>
<p>ヤーティンさんは日本での留学を本当に良い経験だったと語り、何度も「ぜひ外国に行ってください!」と留学を勧めてくれました。しかし日本に住んでいる外国人の中には、日本が好きで望んで来ている訳ではないという方もいると思います。そのような方にも日本に来て良かったと思ってもらえるような、暮らしやすい社会になってほしいと思いました。そのためにはヤーティンさんの言っていたように、自分ができることを継続して行うことが大切なのだと感じました。台湾でのご活躍も楽しみにしています。</p>
<p> </p>
<p><span style="color: #ff0000; font-family: 'Lucida Grande', 'Hiragino Kaku Gothic Pro', メイリオ, Meiryo, 'ヒラギノ角ゴ Pro W3', Helvetica, Arial, sans-serif; font-size: 16px;">*この記事は、2013年2月発行『たぶんか便り』第8号の記事を元にしています。本文内の情報はすべて、発行当時のものです。</span></p>
<p> </p>
<p> </p>2018-05-25T01:34:24+00:00【団体インタビュー 008】ビルマ民主化同盟
2018-05-25T01:36:12+00:00tabunka_tokaihttp://mrct.publishers.fm/editor/794/http://mrct.publishers.fm/article/16372/<p><strong>政治難民による民主化運動~本当の意味での民主化へ~</strong></p>
<p>2011年、テイン・セイン氏が大統領に就任したことによって軍事政権に終止符が打たれ、徐々に民主化へ向かいつつあるビルマ。ビルマ民主化同盟は、軍事政権下のビルマで政治的意見の弾圧にあい日本に逃れた人たちがビルマの民主化をめざし、名古屋市内でデモ行進や講演会を通じてビルマの現状を多くの人に知ってもらおうと活動している団体です。ビルマの軍事政権が終わり民主化に変わりつつある現在は、情報交換をしたり勉強会を開いたりして、国を見守るというような活動をしています。今回はそのビルマ民主化同盟の中心メンバーの一人、ミンティンさんにお話を伺いました。</p>
<p>*軍事政権により現在の公式な英語表記は「ミャンマー」と改められ、日本でもこの呼称が広く知られていますが、今回はインタビューに応じてくださったミンティンさんが使用している「ビルマ」と表記します。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/4f1773eb63bb496a9a206c5118c20689.png" /></p>
<p><strong>“政治難民”として日本へ</strong></p>
<p>1988年、当時20代のミンティンさんは、まだ軍事政権であったビルマで学生運動に参加していました。ビルマで反政府の意思を持つことはとても危険でした。ミンティンさんは国外に逃れようとした人を支援したこともあって、自らの身の危険を感じ1990年に日本へ逃れてきました。当時は「民主化」という言葉を口に出すことや、民主化運動の指導者であるアウンサン・スーチー氏の写真を飾ることも政府によって取り締まられていたと言います。ミンティンさんは、弟が日本にいたからという理由で日本に来ることに決めたそうです。</p>
<p>日本とビルマは昔から友好関係を築いてきたので、日本にはこうした政治的な迫害が理由で逃れてきた難民が多く住んでいるのだとか。ミンティンさんは、地域で開かれる日本語教室が、日本に馴染むためにとても助けになったと話してくれました。その後、ご自身も国際交流ボランティアとして、地域の多文化共生をめざす活動も行うようになったそうです。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/6b4ed8013f0946e6be53a84646e77342.jpg" /></p>
<p><strong>軍事政権下での暮らし</strong></p>
<p>「軍事政権下だったビルマでは、政府の指示は絶対だった。なんでも上から指示されたことをやり、行政手続きのなどの順番も権力がある人が先で、自分の意見を言うことはできなかった。当時は海外の新聞やラジオを聴くこともできなかったので、国が発行する新聞に書かれていることがすべてだった」。そのためミンティンさんは、世界から見るとビルマが経済的に下位であることを知ったとき、とても驚いたそうです。外の情報が入ってきにくく、国が発行する新聞にはビルマの良い点のみ書かれていたので、そのような国のあり方に疑問をもつことなく生活していたのだと。その中で民主化の動きが厳しく取り締まられ、アウンサン・スーチー氏をはじめとする多くの活動家が軟禁や投獄されることとなりました。</p>
<p>長い間軍事政権と民主化運動との対立が続き、ようやく2011年になって政権交代により軍事政権が終わることとなりました。しかし、新しい内閣を構成する閣僚のほとんどが軍人であり、「本当の民主化はこれから」だと言います。ミンティンさんも、まだ今は帰れる状況ではないと判断し、日本でビルマの“真の民主化”を願って活動しています。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/95a45a319f1e47afb69baea8a8818d44.jpg" /></p>
<p style="text-align: center;">(名古屋市内でのデモ行進の様子)</p>
<p><strong>日本での暮らしと難民認定制度</strong></p>
<p>ミンティンさんは日本に来て数年間、鉄工所で仕事をしていました。母国に帰ると命を脅かされる危険があるため帰ることができず、まもなく在留資格を喪失しました。その後は、保険に入れなかったので、常に怪我や病気を心配しながらの生活でした。しばらくして、日本に難民認定制度があることを知りましたが、「在留資格がないのに難民申請をしたら不法滞在として捕まってしまうかもしれないという不安から、なかなか申請に踏みだせなかった」そうです。また、日本の難民認定の審査はとても厳しく、認定されないケースも多いと聞きました。そうしてミンティンさんは、日本に来てから難民制度があると知るまでに5年、それから申請するまでに3年、申請してから難民認定されるまで4年という、とても長い年月がかかりました。</p>
<p>難民認定されると法的に日本に在留することが可能となり、健康保険に加入できたり、困窮時には生活保護を受けたりすることができる可能性があります。また、就労や就学などで日本国民と同じ待遇が受けられるようにもなります。ミンティンさんも難民認定されてからは安心して日本で過ごせるようになり、自信をもって仕事ができるようになったそうです。しかし、たとえ難民認定を受けることができたとしても、日本語がわからなかったり、周りに頼れる人がいなかったりした場合、日本での生活が不自由で不安なものであることに変わりはありません。現在、日本政府は難民認定者に対して日本語教育等のサポートをしていますが、ミンティンさんは「同じ地域にサポートしてくれる人がいるとさらに心強い」と言います。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/06fefc78f5cb44ff938e133c3a6341ad.jpg" /></p>
<p style="text-align: center;">(民主化に向けた署名活動)</p>
<p><strong>「ビルマ民主化同盟」設立</strong></p>
<p>日本に住むビルマ人が、お互いを助け合うことと母国の民主化を日本から促進することを目的として結成された団体が「ビルマ民主化同盟」です。これまで、ビルマの民主化を訴えるデモ活動や署名活動、講演会などを行ってきました。また、他のグループとともに年に一度、ビルマの旧正月を祝う「水掛け祭り」を開催していて、この日は名古屋に近隣の在日ビルマ人が集まる大きな行事となっています。ビルマが軍事政権から民主化政権に移行しつつある現在は、活動内容もデモや署名集めから、勉強会や情報交換などに変わってきていて、「これからのビルマに期待を寄せて見守っている」と言います。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/a5c37f14cb244c618e36add3927e3953.jpg" /></p>
<p style="text-align: center;">(「名古屋ビルマ水かけ祭り」の様子)</p>
<p><strong>ビルマのこれから</strong></p>
<p>今後のビルマについて尋ねてみると、「もっと変わるべき。日本に来て初めて気づいたが、ビルマでは物づくりをしていない。豊富な資源を生かして物づくりを推奨し、国内で一生懸命に働ける環境をつくるべき」と話してくれた。現在、ビルマでは働く意欲のある人ほど国外に行ってしまうそうです。「これからビルマは、民主化にともない自分の考えを持ち、自分の意思で働くことをしていかなければならない」とミンティンさんは言います。働く意欲ある国民が能力を発揮する場をつくっていくことは、きっとこれからのビルマの状況を経済的にも良い方向へと向かわせてくれると信じています。</p>
<p><strong>ミンティンさんの思い</strong></p>
<p>インタビューを終えるころ、ミンティンさんは「いつか祖国に帰りたいと思っている」と話してくれました。現在5歳になる子どもがいるミンティンさん。「子どもにはビルマ語と日本語と英語を話せるようになってほしい」と思っています。「言葉の壁がなければ世界が広がり、いろいろな考え方に出会い、一つの考えに囚われることなく広い見識を持つことができる。日本人はこうだとか、ビルマ人はこうだと決めつけるのではなく、国や人種に関係なくみんなそれぞれ一人の人間として触れ合いたい。はっきりと自分の意思を持ちながら、人それぞれの考えを認め合える。そんな社会が、本当の意味での民主主義といえるのではないだろうか」と話すミンティンさんは、ビルマだけでなく日本の未来もそうであってほしいと願っているようでした。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/f95c63a6d0b64653bc3ecc2cf6229429.jpg" /></p>
<p> </p>
<p><span style="color: #ff0000;"> *この記事は、2013年2月発行『たぶんか便り』第8号の記事を元にしています。本文内の情報はすべて、発行当時のものです。</span></p>
<p> </p>
<p> </p>
<p> </p>2018-05-25T01:36:12+00:00【個人インタビュー 007】チャン・ヴァン・タンさん
2018-05-25T01:37:55+00:00tabunka_tokaihttp://mrct.publishers.fm/editor/794/http://mrct.publishers.fm/article/16297/<p><strong>日本での経験を糧に</strong> <strong>-</strong><strong>新たな出会いと未来への道-</strong></p>
<p>ベトナムからやってきたエンジニアのチャン・ヴァン・タンさんは、来日してまもなく4年になります。ベトナムで6か月間日本語を学んでいたので、来日初期に日本語がわからなくて困ることはあまりなかったそうです。しかし、当時は知り合いがほとんどいなかったため、友達と話すことも出かけることもなく、職場と自宅の往復の日々だったとか。</p>
<p>「寂しくて帰国したくてたまらなかった」。そんな日々から数年、今では近隣のベトナム人の中心的な存在となったタンさん。来日から今日まで、タンさんはどのように日々を過ごしてきたのでしょうか。外から吹き込む風が心地よい夕暮れ時、タンさんの暮らす社員寮でお話を伺いました。</p>
<p> <img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/7a3a2d106b1b48a2a9bb683cbf34d20b.jpg" /></p>
<p><strong>初めての日本 会社のルールへの戸惑い</strong></p>
<p>タンさんは、ベトナムで日本企業への採用が決まってから20人ほどのクラスで日本語を勉強しました。勉強が一段落した頃、日本から企業の担当者がやってきて面接を受け、日本行きが正式に決定しました。友達が日本で働いていたため、日本に行くことに不安はなく、日本に来てからも想像とのギャップを感じることはなかったと言います。</p>
<p>現在は、エンジニアとして図面からプログラムをつくる仕事をしています。そんなタンさんですが、来日当初に失敗したことがあったそうです。「今の会社で働き始めたころ、会社のルールがわからなくて恥ずかしい思いをしたことがありました。以前勤めていたベトナムの会社では、軍手や作業服など、すべてが会社から支給してもらえました。ところが、今の会社では軍手は自分で用意することになっていました。僕はそのことに気が付かず、しばらく同僚のものを勝手に使っていました。数日後、同僚に指摘されて初めて気が付いたときは恥ずかしくてたまらなかったです。何で最初に聞かなかったのだろうと、悔しい思いをしました」と、苦笑いしながら語ってくれました。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/b94001c179be4770bd45c756c99b91a3.jpg" /></p>
<p><strong>ベトナムと日本の文化</strong></p>
<p>日本人の印象を尋ねると「日本人は仕事に一生懸命です。みんな熱心で、わからないことを尋ねると、わざわざ確認して教えてくれます。でも、道端でご近所さん同士が話をしている姿はあまり見かけません。それが少し寂しいです」とタンさん。ベトナムでは、いつも家のドアを開け放して、ご近所さん同士で会話をしているのに、と。「年齢に関係なく、誰とでも話すことができるのもベトナムの特徴です。</p>
<p>また、家族を大事にしていて、お正月には皆で集まって先祖のためにお祈りをします。日本のお盆のような感じです。今は日本にいるので、お正月にベトナムに帰れないこともあります。そんな時は、みんなでベトナム料理を作ってパーティーをします」と教えてくれました。そして、「日本人は困っていても我慢したり、少しずつ頑張ったりしているところがすごいです。そこがベトナム人とは違います。ベトナムで今回のような震災(=東日本大震災)があったら、混乱してバラバラになると思います」。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/ae44ae0ac4d340f8a9e77b2772ccaa70.jpg" /></p>
<p><strong>日本人との交流のきっかけ</strong></p>
<p>来日当初、会社と自宅を往復するだけで、友達もいなかったタンさんの生活が変わったのは、大府市庁舎で開催されている日本語教室(大府市国際交流協会主催)への参加がきっかけでした。「研修生の友達に教えてもらい、一年くらい日本語教室に通いました。日本語教室へは、日本人と交流したい、日本語を忘れないようにしたい、将来のために日本語の能力を高めたいという思いから通い始めました」。その後、別の教室に変わり、現在は月曜日と木曜日の週に2回、日本語を勉強しているそうです。「たくさん勉強できたおかげで、日本語で話したり読んだりすることがだいたいできるようになりました。仕事で使う日本語は、仕事をしながら覚えました。リーダーや課長も直接教えてくれます。教室では、時々、日本人との交流会もあります」。</p>
<p>今年の3月、タンさんは勉強の成果を活かし、大府市国際交流協会主催の日本語スピーチ大会に出場しました。スピーチ大会では、震災に負けずに頑張っている日本人の精神について自らの思いを発表しました。タンさんのスピーチが終了したあと、被災地に向けてみんなで黙祷をしました。タンさんは、そのことに深く感動したそうです。</p>
<p style="text-align: center;"><img style="margin: 0px;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/6904406812cc4c428c49bd505850e9ac.jpg" /></p>
<p><strong>地域とのつながり</strong></p>
<p>タンさんは、日本語教室への参加をきっかけに、地域のイベントにも積極的に参加するようになりました。5月に行われた地域の運動会では、綱引き防災リレー(=防災グッズを持ってリレーをするというもの)に挑戦しました。「綱引きでは、日本人とベトナム人が混ざり合うことができて楽しかったです」と笑顔で話してくれました。10月に行われる産業文化祭りでは、ベトナムコーヒーの販売を行う予定だとか。「産業文化祭りは昨年も参加したのですが、最初はお客さんとお話するのがとても恥ずかしかったです。でも、途中から慣れて楽しくなりました」とタンさん。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/7e8496f294824f13bd7edcd76b561863.jpg" /></p>
<p>今では来日当初のような寂しさは、すっかりなくなったようです。時には友達と旅行をすることもあるそうで、これまでに富士山や京都、東京へ旅行したのだとか。「いちばん楽しいのは、誰かと海へ行って、貝を採りながら話したりすることです。海ではないですが、先日行ったリトルワールド(犬山市)も楽しかったです。知りたいことがたくさんあるので、どこかに行くのはとても楽しいです」。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/1dccaa6b0912476ca8f5f20b03995910.jpg" /></p>
<p><strong>イベントから日常へ</strong></p>
<p>タンさんの日本語の先生でもあり、タンさんら外国人の地域のイベントへの参加を橋渡ししている北井康弘さんにもお話を伺いました。「大府市国際交流協会のボランティアをしていて、国際交流協会としてもっと地域に根差した活動がしたいと思い、地域のイベントに彼らを誘うようになりました。また、彼ら自身、職場でも日本人と話す機会があまりなかったようなので、地域で活動すれば認知度が上がり、日常的に声掛けができるようになるのではないかと思いました。地域とつながって一緒に何かをやるというのは、いちばん大事なことですが、なかなか難しいことです。今はタンさんたちのおかげで、外国人技能実習生だけでなく私たちも地域とつながるチャンスをもらっていると思っています。イベントへの参加を通じて、地域に根差すチャレンジをしています。外国人が地域に根差すことができれば、他の社会問題も解決できるのではないかと思います」。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/1019c88f137d40d3822de7e750326d6b.jpg" /></p>
<p>地域住民からは、「2年前に出てくれたベトナムの踊りをまたやってほしい」、「どこのグループなの?」などと話しかけてもらえて、外国人住民への認識が広がり始めているそうです。「一年ぐらいやって、やっと認知してもらえ始めました。日常的なお付き合いができるようになるのはそれからですね」と北井さん。「ベトナム人は明るく、みんなで集まって何かをするのが好きです。ベトナム人の今の状況は昔の日本に似ているので、日本の60, 70代の方はベトナム人を見て、どこか懐かしいと思うのではないでしょうか。楽しいときはみんなで声をあげて笑ったりするので、そうした明るさが年配の人から見ていいなと思ってもらえるのではないかと思います。</p>
<p>ベトナム人と日本人の交流はお互いにメリットがあります。僕はその機会をつなげているだけです」と北井さんは言います。タンさんは、その言葉を受けて「ベトナム人はみんな、地域に参加したい、何か手伝いたいと思っています」と言います。「日本人からたくさん助けてもらっているので、自分ができることを少しでもやってお返ししたい。明日も先生の家で草取りをして、ベトナム料理をつくってみんなで食べます。日本とベトナムは遠いです。だから、日本で働いていて困ったときに気軽に相談できる日本人の友達がたくさんほしいです。困ったときに近くの日本人に聞けるのは安心できます」と話してくれました。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/228324f961bf45f99982c5378d1928a6.jpg" /></p>
<p><strong>輝く未来</strong></p>
<p>将来は、ベトナムで日本と関わる仕事がしたいというタンさん。「夢は2つあります。1つは、日本語の教室を開くことです。私の出身であるベトナム中部のビン(VINH)というまちには、日本語を学べるところがほとんどありません。勉強をしようと思うと、ホーチミンやハノイに出なければなりません。近年は日本の工場がベトナムに増えていて、日本語を勉強したい人が多くいるので、中部にも日本語の学べる場所をつくりたいです。そのための土地も買いました。もう1つの夢は、結婚式などパーティーのできるレストランをつくることです。日本のサービスは素晴らしいので、今のベトナムにはないサービスを提供できるレストランをつくりたいです」。</p>
<p>来日から4年、タンさんは日本でも居場所を見つけ、充実した日々を送りながら、着実に夢に近づいているようです。温かく柔らかい笑顔のタンさんのこれからを応援しています。</p>
<p><img style="margin: 0px auto; display: block;" src="https://publishers-static.s3.amazonaws.com/magazine_image/484/ba1ba009b9024fb38fb8687d068016f7.jpg" /></p>
<p> </p>
<p><span style="color: #ff0000; font-family: 'Lucida Grande', 'Hiragino Kaku Gothic Pro', メイリオ, Meiryo, 'ヒラギノ角ゴ Pro W3', Helvetica, Arial, sans-serif; font-size: 16px;">*この記事は、2012年10月発行『たぶんか便り』第7号の記事を元にしています。本文内の情報はすべて、発行当時のものです。</span></p>
<p> </p>
<p> </p>
<p> </p>
<p> </p>2018-05-25T01:37:55+00:00